6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。
できごと
500年代
510年代
520年代
- 520年
- インドのグプタ朝が分裂し統一王朝は崩壊。グプタ朝の版図は北ベンガルとビハールに限定される。
- 北魏の使者である宋雲と恵生がバダフシャン付近でエフタル王ミヒラクラに謁見する。
- インド出身の達磨が海路を通って広州に到着する。
- ラヴェンナに東ゴート国王のためのテオドリック廟が建立される。
- 520年頃
- 523年
- 524年頃 - 東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
- 525年
- 東ローマ帝国の援助を得たアクスム王国がヒムヤル王国を滅ぼす。
- 東ローマ帝国のエデッサで大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。
- 城壁の再建の途中でキリストの「自印聖像(マンディリオン)」が発見される。
- 525年頃
- 526年
- 526年 - 539年
- 南朝梁の武帝の王子蕭繹(後の梁の元帝)が『梁職貢図』の原本を作成させる。
- 527年
- 527年 - 565年頃
- 528年
- 529年
530年代
- 530年 - ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。
- 531年
- 532年
- 東ローマ帝国でニカの乱。
- 皇帝ユスティニアヌス1世は退位逃亡寸前まで追いこまれるが、皇后テオドラの助力で反徒を武力鎮圧。
- この後コンスタンティノポリス市街の再建が進められ、巨大な地下貯水池(バシリカ・シスタン)もこの時期に造られる。
- 東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」が結ばれ国境が固定化される。
- 533年
- 534年
- フランク王国(パリ・ソワソン)がブルグント王国を征服。
- 東ゴート王国女王アマラスンタが廃位される。
- 北魏の孝武帝が洛陽から出奔し、長安の宇文泰に招かれる。
- 西魏の宇文泰が郷兵を結集し、府兵制が成立する。
- これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、武川鎮軍閥(関隴集団)が結集する。
- 534年頃
- 535年
- 536年 - 安閑天皇崩御、宣化天皇即位。
- 537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
- 現存するイスタンブールの「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
- 538年
- 539年
- 宣化天皇崩御、欽明天皇即位。
- ゴート人のミラノ(メディオラヌム)略奪。
540年代
550年代
- 550年
- 東魏を滅ぼした高洋(文宣帝)が北斉を建国。
- エジプトのフィラエ神殿が東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命により閉鎖される。
- 550年頃
- 552年
- 553年 - 第2コンスタンティノポリス公会議で「三章問題(英語版)」が討議されその著作が排斥される。
- 554年
- 東ローマ帝国がイタリアの東ゴート王国を征服。
- 東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部に進軍。
- ドゥヴィン教会会議で、アルメニア使徒教会がキリスト両性論を拒否し、非カルケドン派を宣明する。
- 西魏が江陵を陥落させ、梁の元帝を殺害。
- 管山城の戦いで新羅の真興王が百済の聖王を倒す。
- 555年
- 556年
- 557年
- 558年
560年代
570年代
- 570年
- 571年 - 北斉の高官徐顕秀の墓(中国語版)が山西省太原に作られる。
- 572年
- 574年 - 北周の武帝の廃仏が始まる(建徳の廃仏、三武一宗の法難の一つ)。
- 576年 - 新羅の真興王によって花郎が組織される。
- 577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。
- 578年 - 世界最古の会社である金剛組(大阪市)が創設される。
- 579年 - 西ゴート王子ヘルメネギルドのカトリック改宗と、父王レオヴィギルドへの反乱。
580年代
- 580年頃 - スラヴ人が北ギリシャに侵入する。
- 581年
- 582年
- 583年
- 584年
- 585年
- 586年 - メソポタミア北部ザグバの聖ヨハネ修道院で「ラブラの福音書(英語版)(フィレンツェ・ラウレンツィアーナ図書館蔵)」が作られる。
- 587年 - 用明天皇崩御、蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(丁未の乱)、崇峻天皇即位。
- 588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺(飛鳥寺)の造営が始まる( - 596年)。
- 589年
- 隋が南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代が終わり、中国が統一される。
- 第3回トレド教会会議で西ゴート国王レカレド1世がカトリックに改宗する。
590年代
600年代
- 600年
- 日本が第1回遣隋使を派遣(『隋書』倭国伝にみえるが、『日本書紀』に書かれていない)。
- 隋で三階教が邪教とされ弾圧される。
伝説・架空のできごと
- 502年 - 514年 - 梁の武帝は風狂の僧宝誌を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして画家たちが描いた肖像画を見て武帝は再度宝誌を追うが、その姿を二度と見ることはなかった(原型は南朝梁の慧皎『高僧伝』巻10。『宇治拾遺物語』他の記述に発展。京都市西住寺の宝誌和尚像も有名)。
- 502年 - 549年 - 梁の武帝の治世に活躍した画家の張僧繇が金陵安楽寺の壁画に龍を描き、ややあって目を書き入れたところ龍が画中から動き出し瞬く間に天上に駆け上っていった(張彦遠『歴代名画記』「画竜点睛を欠く」の故事。他の出典として『水衡記』)。
- 507年 - 越前国味真野に住んでいた、応神天皇の子孫である大迹部皇子(男大迹皇子・継体天皇)のもとに急使が届き、次の帝の候補として白羽の矢が立てられた。皇子は都への旅路を急ぐかたわら、この地に残すことになる恋人照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ(花籠))を届けさせる(世阿弥の謡曲「花筐」)。
- 528年 - コネチカット州ハートフォード出身のハンク・モーガンは、兵器工場の職長であった。ある日モーガンは部下に殴られて気絶する。意識を取り戻すと目の前には騎士がいて、騎士に連れて行かれた先はキャメロットだった。モーガンは自分がかのアーサー王宮廷にいることを知る(マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のヤンキー』)。
- 537年 - アーサー王の遠征中にモルドレッドが反乱を起こし、カムランの戦いで王が討伐した。しかし王は激戦の末、瀕死の重傷を負い、治療のためアヴァロンへ赴き、この地で最期を迎えることとなる。またアーサー王は未来のいつかに目覚めて人々を救うために帰ってくるため、ここで眠っているだけだという(「アーサー王帰還伝説(英語版)」。最古の記述は『カンブリア年代記』、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』などで発展)。
- 564年 - 洛陽が北周軍に包囲された時、敵の策謀を疑い門は閉じられたままだった。救援に来た北斉の将軍高長恭(蘭陵王)が門前で兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌を見て門兵が扉を開いた。以後もその美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、高長恭は常に異形の仮面をつけて戦い続けた(雅楽「蘭陵王」)。
- 557年以降 - 581年頃 - 北周から隋の間に長安にいた若者杜子春が財産を使い果たし、仙人の鉄冠子のもとで修行に励むが、ふとした過ちで不老長寿の夢を絶たれてしまう(原作は唐の李復言の伝奇小説『続玄怪録』の「杜子春伝」。日本の芥川龍之介の翻案小説、『杜子春』は時代・場所のほか物語に大きく変更あり)。
- 562年以降 - ゲルマン諸族を打ち破り、帝国領土の回復に顕著な貢献したにもかかわらず、思いがけぬことで東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の寵を失った歴戦の勇士・老いた将軍ベリサリウスは、追放されて盲目にされたばかりでなく、陋巷で物乞いをして人々の慈悲にすがるような哀れな最期を迎えることになった(ジャン・フランソワ・マルモンテル(英語版)の歴史小説『べリゼール(英語版)』、この小説に想を得たジャック・ルイ・ダヴィッドの油彩画「施しを乞うベリサリウス(リール美術館蔵)」も有名)。
- 565年 - アイルランド人でアイオナ修道院長でもあったコルンバは、スコットランド北部を布教する際に、人々を苦しめていたネス川に潜む怪物を聖なる力で追い払った(ローナ修道院長アダムナン(英語版)による『聖コルンバ伝(Vita Columbae)』。ネス湖の未確認生物「ネッシー」の最古の記録ともされる)。
- 581年以降 - 広東省の羅浮山麓は梅の名所で、隋の開皇年間に将軍趙師雄がここである清楚な美女に出会い、歓談し酒を酌み交わした。酔いが覚めるとただ一人。美女は梅花の精霊であった(柳宗元「龍城録 趙師雄酔憩梅花下」に見える「羅浮仙伝説」)。
- 585年以前 - 日本の敏達天皇の時代、元興寺(飛鳥寺)の童子が怪死する事件が相次いだ。雷神により授かったとされる尾張出身の怪力の童子がその元興寺の妖怪を倒し、怪異は収まった。この童子こそ道場法師の前身である(景戒『日本霊異記』)。
- 590年以降 - 若きペルシア王子ホスロー(後の皇帝ホスロー2世)はアルメニアに赴き、その王女シーリーンと運命的な出会いを果たす。互いに惹かれ合うもホスローは、帝国の内乱を鎮圧するのに忙殺され、その鎮圧のため助力を仰ぐ東ローマ皇帝(カエサル)の王女マルヤムとの縁組を承諾せざるを得なくなる。互いにすれ違う二人を待ち受ける波乱万丈な運命はまだまだ続く(ニザーミー『ホスローとシーリーン』)。
時代の動向
東アジア
大陸
華北を統一していた北朝北魏の政権中枢が前世紀末に南遷し漢化政策を推し進めた結果、モンゴル高原から南下する柔然の侵攻からの国土防衛を担っていた六つの軍事駐屯地、すなわち鎮の軍隊が著しい地位低下に見舞われ不満を募らせた末に反乱を起こす(六鎮の乱)。戦乱の末に北魏は東西に分裂し、懐朔鎮出身の高歓率いる六鎮の主力と山東系の漢人貴族が結びついて北魏皇族を戴く東魏と、武川鎮出身の宇文泰率いる武川鎮軍閥が関中に拠って北魏皇族を戴く西魏が成立する。やがて東魏では高氏、西魏では宇文氏が皇位に登り北斉、北周が成立する。当初の劣勢を跳ね返した北周が北斉を下して華北を再統一するが、北周政府の実権を掌握したやはり武川鎮軍閥軍閥出身の楊氏(普六茹氏)への禅譲が行われて隋が成立し、この政権のもとで柔然に代わって北方から圧力をかけてくる突厥に内部離間を誘って東西分裂により弱体化させることに成功するとともに南朝の陳が征服され、西晋滅亡以来の南北朝統一が成る。
朝鮮半島
日本
日本では古墳時代後期にあたる。ただし、泊瀬部大王(後の崇峻天皇)が暗殺され異母姉の額田部皇女(後の推古天皇)が立てられた崇峻天皇5年(592年)以降、または厩戸王(後の聖徳太子)が摂政になった推古天皇元年(593年)以降は、飛鳥時代に区分される場合もある。
- それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
- 考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
- 前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
- この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
西アジア
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南アジア
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東南アジア
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ヨーロッパ
西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれる時代に入る。言葉の与える印象ほどに庶民の暮らしが厳しかったわけではないが[2]、それでも強力な国家の消滅と分散により、古代ローマに栄えた学問や芸術は消え去っていった。知識の担い手として代わりに後を引き継いたのだのが修道院で、ベネディクトゥスが戒律を定めたのもこの頃である。
東のビザンツ帝国ではユスティニアヌス1世が登場し帝国は小康状態を取り戻していたが、ホスロー1世率いるサーサーン朝のとの戦いは劣勢にあり、またゴート戦争で獲得した旧西ローマ領も短期間で失われ、往年の勢いを取り戻すことはできなかった。
人物
地中海世界とヨーロッパ
イタリア(東ゴート王国からランゴバルド王国まで)
フランク王国
イングランド・アイルランド
西ゴート王国
東ローマ帝国
西アジア
中央アジア
南アジア
東アジア
南朝
北朝
隋
朝鮮
日本
脚注
出典
- ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 84ページ
- ^ 日経ナショナルジオグラフィック『中世史マップ――ヨーロッパの美・権威・信仰』
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、6世紀に関するカテゴリがあります。