雷電爲右エ門
雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、1767年(明和4年)1月 - 1825年(文政8年)4月9日(旧暦2月21日))は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)出身の元大相撲力士。本名は関 太郎吉(せき たろうきち)。いわゆる「信州雷電」[1]。 現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている[2]。なお、本文中の日付は全て旧暦である。 来歴生い立ち1767年(明和4年)1月、信濃国小県郡大石村字金子(現・長野県東御市)にて関家の長男として誕生、幼名は太郎吉(または樽吉)とされた。幼い頃から体格に恵まれ、14~15歳の頃には既に6尺(約181センチ)に達しており、家事を手伝いながら上野国まで往復していた。 13歳の時、小諸の城下町へ出稼ぎに行き、精米所の柳田藤助の下で奉公した。そこでの仕事ぶりと怪力が評判となり、藤助の伝手で長瀬村の庄屋・上原源吾右衛門(後の2代・為久)が関家へ相撲の修行をさせたいと申し込んできた。上原家では代々が相撲好きで、自前の土俵を構えて20名ほどの少年の世話をしていたほどで、かつてこの地で巡業を行っていた浦風林右エ門が上原家と親交があったこともあり、道場から浦風部屋へスカウトされたこともあったという。 1781年(天明元年)4月、太郎吉は上原道場の門弟となり、相撲の稽古に加えて読み書き、そろばんを習うが、読み書きも四書五経を習うなど、門下生の中でも秀才四人衆の一人に数えられた。源吾右衛門は太郎吉にさらなる期待を寄せ、長昌寺の監峰和尚に太郎吉を向かわせて厳しい修業を行った[3]。 1783年(天明3年)になると天明の飢饉が発生し、全国で一揆が発生したため、当時の相撲集団の大きな収入源だった巡業も中止が相次いだ。浦風一行も北陸地方を中心とした巡業を行っていたものの中止となったことから収入源を断たれ、幸運にも凶作の被害を受けなかった上原道場に戻り、力仕事を手伝いながら慰安相撲を行い、翌年春まで逗留した。太郎吉もこの間に関取の稽古を受けて力を付け、浦風から力士転向を勧められたという。 入門太郎吉は1784年(天明4年)秋に上京するが浦風はすぐに初土俵を踏ませることはせず、まずは伊勢ノ海部屋へ入門させ、当時の角界の第一人者だった谷風梶之助の内弟子として稽古を付け、その素質を存分に開花させる方針を採る。不況による本場所の中止が相次ぐ中で太郎吉は谷風の胸を借りて力を付け、初土俵に備えた[4]。 1788年(天明8年)11月、部屋の柏戸勘太夫の紹介で松江藩の抱え力士となり、4人扶持で松江藩士となると同時に、信州の両親には金40両が与えられた。四股名は、雲州ゆかりの「雷電」を名乗ることを許された[5]。 1789年(寛政元年)、甲斐国鰍沢村(現:山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)において西片屋のみの巡業を行い、雷電は都合で欠席した谷風に代わって大関として7日間の興行を行った。これが記録に残る雷電の初土俵で、この番付のみ「雷電 為五郎」の表記である[6]。巡業終了後はそのまま大坂へ向かい、同年8月場所(大坂相撲)で小結に付出された。本場所での番付登場は初だったが、この場所は全休となる[7]。 江戸で行われた同年11月場所は師匠・浦風が勧進元だったが、雷電ら雲州抱えの力士は藩主・松平治郷の指示によって大坂から松江へ向かい、参加出来なかった。同年8月23日に三人扶持で扶持米を下賜され、正式に藩の相撲衆に加えられると、そのまま雲州で稽古、相撲披露、巡業などを行ってそのまま越年した。江戸では谷風が小野川喜三郎と共に吉田司家から横綱免許を授与され、これを機に江戸相撲は最初の相撲黄金時代を迎えることとなる[8]。 谷風を追う雷電雷電は結局、1790年(寛政2年)3月場所を欠場した。2場所連続の全休となり、藩主から江戸勤番の命が下ったために4月20日に江戸へ入り、5月24日から泉岳寺の花相撲に出場した。続いて参加した四谷での興行はさらに小規模な「稽古相撲」扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態での相撲だったという。その直後に病に倒れ、7月下旬から開始された北陸巡業には遅れて参加するが、柏崎・善光寺・熊谷・鴻巣と回る合間を縫って帰郷している[9]。11月場所においてようやく江戸相撲における初土俵を踏み、雷電は谷風の後を追うように、柏戸を上回って関脇に付出されると、10日間の興行で8勝2預の優勝相当成績を挙げる。8日目の小野川喜三郎戦では雷電の寄り倒しと小野川の打っ棄りを巡って大物言いとなり、勝負検査役は預とした。雷電は自身が勝っていたとの思いが強かったらしく、『諸国相撲控(通称・雷電日記)』ではこの日の結果について、「小野川も投げ候」と記している。 江戸相撲でいきなり優勝相当成績を挙げた雷電は、1791年(寛政3年)に木更津での興行を終えて江戸へ戻り、同年4月場所に出場する。初日から3連勝と危なげなく白星を並べたところに上覧相撲によって本場所開催が中断される。当時の上覧相撲は本場所とは別物として考えられており、現在の天覧相撲のように本場所の途中(8日目)に設定されているわけではなかった。雷電は6月11日の上覧相撲で結び前に関脇・陣幕島之助と対戦するが、陣幕の立合いから一気ののど輪を受け、真一文字に土俵際まで押し込まれ、そのまま押し出しで敗れた。この敗戦が雷電にとって公式戦での初黒星となった。上覧相撲終了後に再開された本場所においても、5日目に前頭4枚目・梶ヶ濱力右エ門に敗れるなど、6勝1敗1無2休と物足りない成績に終わった[10]。本場所終了後は藤沢で興行を行った後、大坂相撲の同年8月場所に出場して谷風に代わって大関を務め、江戸に戻ってから出場した同年11月場所では8勝1預1休の好成績を挙げた。 1792年(寛政4年)2月28日、雲州抱えの力士は藩主の命によって松江へ下ったため、雷電は江戸相撲の同年3月場所を全休した。3月下旬までの滞在期間中に御前で稽古相撲を行い、4月10日に大坂へ入ってから名古屋、大坂、京都と連続興行を行う。京都相撲では九紋竜との取組の途中、雷電を一目見ようと駆けつけた大勢の見物客の詰め過ぎと騒ぎ過ぎによって桟敷が落下、複数の怪我人が発生したことから取組は引き分けとされた。場所終了後には兄弟子・柏戸が死去、9月の大坂相撲は不入りで打ち切られた他、江戸相撲11月場所は大雪によって3日間で興行が打ち切られる(成績は2勝1休[11])など、この年の雷電は多忙な日々を極めた。その中で、臼井の甘酒屋の娘・はん(後の八重)と結婚し、麹町十丁目の長屋に新居を構えた。 雷電の黄金時代1793年(寛政5年)1月から銚子などの巡業を行い、江戸相撲3月場所は8日目に常山五郎吉戦で敗れるなど、8勝1敗に終わった。この頃から巡業の形態も変化が加わり、6月の掛川・袋井の巡業を経て、8月には松江へ小野川喜三郎ら藩外の力士を招き入れ、大規模な国内巡業を行った。御前相撲では小野川と対戦して五分の成績だった[12]。同年10月場所では8勝1預1休で、初土俵以来6場所ぶりの優勝相当成績を挙げた。これ以降、出場した本場所で優勝を逃したのは僅か2場所である。 1794年(寛政6年)の帰省中に桜田火事が発生したが、松江藩の屋敷と雷電の自宅は被災を免れた。雷電はこれを受けて神田明神で義援興行を行った後、3月場所に出場する。当初、寺社奉行から上覧相撲が近いことを内示されたために勧進元は開催を急いだが、雷電は初日の出場が間に合わず休場となる。4月9日の上覧相撲では千歳川庄太夫を押し出しで下した後、「お好み相撲」では幕下・磐井川逸八と対戦して付き膝で勝利した。 1795年(寛政7年)の年始に江戸中をインフルエンザが猛威を振るい、この影響で1月9日に谷風が死去。同年3月場所では雷電が大関に昇進し、全勝するも雨天続きとインフルエンザの影響により5日目で打ち切りとなった[13]。1797年(寛政9年)3月場所7日目に花頂山五郎吉に敗れたが、花頂山は4年前に敗れた常山と同一人物で、雷電が2敗した唯一の対戦相手である。5月に入ると藩主・松平治郷が病に倒れ、鶴の一声で急遽松江に戻り、8月に治郷が回復するまで毎日のように御殿で相撲を奉仕したという。この時代の相撲は女人禁制を解除して幕下以下の取組のみ披露するのが慣例だったが、この場所では雷電、小野川が共に五人抜きを披露した。ところが、本場所終了後に小野川が現役引退を表明し、雷電の一強時代が続く[14]。 1798年(寛政10年)6月からの奥州巡業に出発すると、片屋を庄内藩・秋田藩の力士が占めており、雷電らは客分格扱いとされた。その間に長女を亡くす悲劇に見舞われ、同年10月場所は小野川の久留米藩に代わって雷電から2勝目を挙げた花頂山の庄内藩が東方を支配し、両藩の家老が土俵下に控えて行司、親方衆を巻き込んで口論となるなど大荒れの場所となったが、これらの逆境を乗り越えて9勝1休の優勝相当成績を挙げた。しかし、場所中の11月7日に今度は父・半右衛門が死去する[15]。雷電はその後、1799年(寛政11年)11月場所でも9勝1休の優勝相当成績を挙げ、休場した場所を除くと11場所連続での優勝相当成績という空前絶後の記録を打ち立てた。12月に藩から松江行きを命じられるが、体調不良により江戸に留まる[16]。 雷電は年が明けた1800年(寛政12年)2月に改めて松江へ向かうが、江戸本場所の開催期日を延ばすように松江藩と出場交渉するも実らず、これに合わせて延期されていた大坂相撲には間に合ったものの、番付編成は既に雲州力士抜きで編成されていたために出場が叶わなかった。雷電は仕方なくそのまま北陸巡業へ向かい、実家に立ち寄って生家を立て替えている。同年10月場所初日に鯱和三郎に敗れ、江戸相撲での連勝が44で止まった。最終的に6勝1敗1預2休となり、優勝相当成績も無敗の千田川だった[17]。 1802年(享和2年)2月、松江藩主・松平治郷が参勤交代で江戸へ向かった後、丸亀藩抱えの大関・平石七太夫が訪問しており、一行の出発前の合間を縫って2日間のみ興行を行うが、この興行は開催前日に急きょ決定したもので、文字の部分が白い凹番印刷の番付表となった[注釈 1]うえ、雨雪によって客入りが悪かった[18]。その後は浜田、広島を経由して九州へ向かい、4月には島原で半月ほど過ごす。この間に長崎で中国人と酒の飲み比べをして勝利し、書画や支那カバンを譲られた[注釈 2]。長崎での興行は雨に降られ、10日間の興行を全て開催するのに1ヶ月を要した。 現役引退1804年(文化元年)には3月場所を帰藩で病欠したことにより休場し、6月に仙台で谷風の追善相撲を行う。江戸に戻ってからは10月場所5日目の柏戸宗五郎戦で不覚を取り連勝が38で止まるも、8勝1敗1休で優勝相当成績を挙げた。1805年(文化2年)2月場所開催中にめ組の喧嘩が勃発するも、雷電は直接関わっていないと思われるが日記には大喧嘩の描写が事細かに記されていた。その後も同年10月場所6日目の春日山鹿右衛門戦、1806年(文化3年)2月場所4日目の音羽山峰右エ門戦にそれぞれ敗れる。音羽山は立合いで雷電の足を取る奇襲作戦で土を付けたとされ、「雷電は雲の上にてゴロつくに 音羽が山の下でころころ」と歌われた。この時に文化の大火が発生したために本場所は5日間で打ち切られ、その後も巡業も大火による不況によって巡業の勧進元が見つからず、一行が自主興行しながら進む異例の形を採る。大坂相撲の5月場所も「手興行」に悪戦苦闘中だったために出場できるはずが無く、本場所も悪天候で順延に順延を重ね、大火によって長期中断を余儀なくされた。その中でも雷電は9勝1預の優勝相当成績を挙げるなど、度重なる天災の中でも無類の強さを維持し続けていた。 雷電はその後も優勝相当成績を挙げ続けていたが、同時に黒星の数も徐々に増えて行く。1808年(文化5年)10月場所の鏡岩濱之助戦で不覚を取り、1809年10月場所には新入幕だった立神盤右エ門に敗れるなど、周囲からは体力の限界説まで出てくるほどだったという。それでも1810年(文化7年)2月場所では9勝を挙げるなど活躍するも京都相撲では2敗を喫したほか、同年10月場所5日目には過去13回対戦して全て勝利していた江戸ヶ崎源弥に14回目の対戦で初黒星を喫した。藩主・松平斉恒の参勤交代に先発するも腰痛のために小田原で特例により離脱するなど腰への不安もあり、最後の対戦となった柏戸との大関対決を引き分け、1811年(文化8年)2月場所の全休を最後に現役を引退した。江戸本場所での通算成績は254勝10敗(34場所)、勝率.962だった[19]。 相撲頭取として1811年(文化8年)2月14日、参勤交代で江戸に滞在していた松江藩主・松平斉恒の許可を得て現役引退、同時に藩の相撲頭取に任命された。雷電の引退によって、出雲抱え力士は関脇・玉垣額之助ただ一人となった。雷電は藩命によって他藩の力士の勧誘や、玉垣に有利な番付・取組編成のための交渉を命じられるがどれも上手くいかず、玉垣自身も1812年(文化9年)に大関を1場所だけ務めて現役引退を表明した。これによって抱え力士がいなくなったため、雷電は善光寺で引退披露相撲の興行を行い、松代藩主・真田幸専の御前相撲も披露するなど、半現役の状態がしばらく続いた[20]。 1814年(文化11年)には、3年前の火災で被災した報土寺の再建にあたり、藩ゆかりの寺だった縁で雷電が鐘楼と梵鐘を寄贈する。同時に雷電と親交のある狂歌師・蜀山人の提案で相撲をモチーフにした梵鐘を制作して評判を呼んだが、幕閣・本多忠顕に目を付けられる。本多家は元々出雲・松平家と反りが合わないことから、鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出され、ついには雷電の相談に乗った贔屓の旦那衆の一人が獄死を遂げた。結局、雷電自身も江戸払いに処せられてしまう。 1815年(文化12年)、49歳となった雷電は巡業も含めて完全に現役を引退する決意を固め、8月12日に初めて上京する際に出世を誓ったとされる白鳥神社で最後の相撲興行を行い、完全に土俵を去った。 雷電はその後も、頭取として抱え力士(当時の出雲藩では大半が江戸籍の出入り力士だった)の世話や藩主との調整、相撲会所での本場所出場の交渉などを行った。この頃は前藩主の松平不昧が病に倒れ、1818年(文化15年)2月場所直前には藩の看板力士だった鳴滝忠五郎が現役死亡するなど、多忙な日々が続く。それでも再編成された番付で小結となった縄張綱右エ門が優勝同点の好成績を挙げて面目を保つと、場所中の雷電は毎日会所で待機し、勝負付きが刷り上がると早馬で不昧の元へ届けていた。しかし、場所終了後の4月24日に不昧が亡くなると、同年秋から翌年にかけて出雲力士の有馬山龍右エ門の「小野川」襲名を巡って久留米藩と対立、雷電は双方の要求の板挟みとなり、結局襲名を短期間で断念せざるを得なかった。さらに、藩主・斉恒自身が相撲に熱心で無かったこともあって抱え力士を他藩へ移籍させ始めると、雷電も命に従って各藩に力士移籍の交渉を行った。また、藩に掛け合ってそれまで世話を掛けた弟子達に対して化粧回しなどを分け与えていた。 1819年(文政2年)3月28日、3月場所開催分の給金7両を受け取って相撲頭取を辞職、同時に松江藩との縁を切った。それでも4月11日には、斉恒の参勤交代出発の日に雷電をはじめとする旧抱え力士が集まり、品川まで見送った[21]。 晩年松江藩との縁を切った雷電だが、1822年(文政5年)の旧主・斉恒の葬儀では斎場の遠くから見送ったり、母・けんの葬儀には帰郷せず、三回忌の際に帰郷した記録が残っている。 1823年(文政6年)には臼井にある妻・八重の実家近くで逗留する。この頃から松江藩の家臣の間で力士を再度抱え直すこととなり、雷電もこの動きに加わる。江戸へ戻った雷電は有望な力士を探し、当時幕下だった稲妻雷五郎・鳴滝文右エ門を発掘する。両者はそれぞれ大関・小結まで昇進し、稲妻は吉田司家から横綱免許を授与された。1824年(文政7年)には両者とも柏戸を苦しめるなど好成績を挙げ、「相撲王国」は復活の第一歩を記したが、程なくして雷電は死期の床に就く[22]。そして1825年(文政8年)旧暦2月21日(1825年4月9日)、59歳で死去。 死因などの詳細を伝える資料は少なく(文政年間当時流行していた感冒で死去したという説が最も有力だったが、最近[いつ?]覆された模様である[誰によって?]。)、墓所も赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。 主な成績通算成績
場所別成績江戸相撲の本場所のみを示す[23]。
優勝相当成績を通算で28回残している[注釈 5]。これは白鵬翔(45回)、大鵬幸喜(32回)、千代の富士貢(31回)に次いで4位の記録で、年6場所制が始まる以前のものとしては最高記録である。9連覇は朝青龍明徳と白鵬の7連覇を上回って史上最高[注釈 6][注釈 7]。 連勝記録
雷電に勝利した力士雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。
雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。音羽山は勝利して歌に詠まれ、め組の喧嘩で佐渡ケ嶽と居残り、火消しと闘って勝利をあげた。 人物
相撲のエピソード
家族・子孫関家は農家ながら、地元ではかなりの旧家であった[30]。言い伝えによると、戦国時代は村上義清の侍大将であったという。村上氏没落後は再起をかけつつ帰農したという[31]。
現在、「雷電の子孫」を名乗る関家は長野県東御市と島根県松江市に各一軒ある。前者は雷電の妹・とくの流れを汲んで雷電顕彰会を主宰している。後者は雷電の没後、松江藩のとりはからいで、八重が雲州力士・朝風石之助を養子に迎えて松江藩士としての家系存続を許されたもの。両家は現在も交流を続けている。
横綱にならなかった理由について雷電が横綱免許を受けなかった理由としては次のような諸説があるが、どれも決め手を欠いている[36]。
現代のように、横綱審議委員会の横綱推薦内規(大関で2場所連続優勝)が定められているという視点からは、雷電ほどの好成績でありながら横綱に昇進していないのは不可解である。しかし新田一郎は、上記の諸説が「横綱という制度がありながら、それにふさわしい雷電がなぜ横綱を免許されなかったのか?」という前提に立っていることを指摘しており、「吉田司家から谷風と小野川が横綱免許を受けた段階では横綱は恒久的制度として成立しておらず、上覧相撲における演出の一つとして一回限りのものとして構想されたために、雷電が横綱を免許されていない」という説を立てている[37]。 実際、吉田司家の横綱免許は谷風・小野川の授与の後、39年もの歳月を経て1828年(文政11年)の阿武松緑之助まで行われていない。この阿武松の免許の前段階として、1823年(文政6年)に相撲の家元を名乗る京都の五条家が谷風・小野川の横綱免許という先例に目をつけ、柏戸利助・玉垣額之助に独自で横綱免許を与えていた[注釈 11]。これに負けじと、吉田司家は江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、1828年(文政11年)正月に江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、2月に吉田司家は阿武松に横綱を免許した。これを機に吉田司家は五条家を牽制し、結果として五条家も吉田司家の免許権を認めた。新田は、こうした経緯で横綱免許は制度化したのであって、横綱制度確立以前の雷電に横綱免許が無いのはむしろ当然であり、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている。 免許権を持っていた吉田司家、さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として追認するなどの措置はないが、1900年(明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎が富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑には「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。 史跡・遺品
雷電の墓
表現された作品
脚注注釈
出典
参考文献
参考情報
関連項目
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