野火止用水
野火止用水(のびどめようすい、のびとめようすい)は、東京都立川市の玉川上水(小平監視所)から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である[1]。 別名を伊豆殿堀(いずどのぼり)という[2]。 かつてはいろは樋を渡って、旧宗岡村にも水を送っており、いろは通りの歩道側には暗渠が現在も残っている。 開削多摩地域には関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋する乏水地帯の原野であったが、近世には江戸幕府開府に伴い用水確保のため江戸近郊の開発が加速した。 承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した[3]。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は40日[4]、約24kmを掘り切った[5]。費用は3000両だった。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水した[6]。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、同市立西堀小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱(と安松らの功労者たち)の人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われている。 また、『東村山音頭』の5番の歌詞には「言わず語りに 伊豆殿堀よ ソレヤレソレ」とあり、東京都側でも歌われている。 野火止用水史跡公園(新座市本多1丁目)で本流と平林寺へ分岐する平林寺堀と陣屋堀(廃止)に分かれる。 現在は関越自動車道を水路橋で越えている。 水利用水争い1947年(昭和22年)8月、降水量不足で用水の流量が極端に低下した。これに対して下流側の大和田町、志木町の農民が、上流側の小平町、清瀬村側の農民が用水のせき止めを行っているためとして反発。地域の水利用組合の交渉により調停が試みられるも決裂し、対立が続いた[7]。 水質の劣化と改善戦後に入り生活様式が変化すると野火止用水は次第に本来の役割を失い、次第に生活排水が用水に入るようになる。特に1963年(昭和38年)以降は、周辺の宅地化が進行したため水質汚染が激しくなった。1964年(昭和39年)、関東地方が旱魃に見舞われたために東京が水不足となり、分水が一時中止される。1966年(昭和41年)、再度通水されるようになるが、水量が制限されたため水質汚染は改善されず、1973年(昭和48年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止。以降、用水路の暗渠化が進んだ[8]。 埼玉県と新座市は文化的業績の大きい野火止用水を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路のしゅんせつや氾濫防止のための流末処理対策を実施した。一方東京都は1974年(昭和49年)に野火止用水を歴史環境保全地域に指定し[9][10]、「清流復活事業」により1984年、高度処理水(下水処理水)を使用して水流が復活した。 流域に住むボランティアによる清掃活動もしばしば行われる。そのため現在では流域住民の憩いの場となっている。 流域の自治体橋梁
至玉川上水より記載
脚注
外部リンク
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