赤田将吾
赤田 将吾(あかだ しょうご、1980年9月1日 - )は、鹿児島県曽於郡大崎町出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)。右投両打。現在は埼玉西武ライオンズの二軍野手コーチを務める。 経歴
プロ入り前出身地の大崎町が野球よりソフトボールが盛んだったこともあり、同郷の先輩である福留孝介と同様に中沖小学校時代はソフトボールをしていた。大崎中学校を経て、宮崎の日南学園高校に進学。試合前のシートノックの時に赤田のフィールディングを見ていたプロ野球チームのスカウトが、同高校の監督に守備のうまさを指摘したところ、レギュラーとして起用されるようになったという[1]。 高校3年時には「4番・二塁手」として、夏の甲子園大会で活躍(3回戦敗退)。大会後には松坂大輔(横浜高)、杉内俊哉(鹿児島実業高)らと共にU-18日本代表の一員として、第3回AAAアジア野球選手権大会に出場しチーム三冠王となる活躍で優勝に貢献した。 1998年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けて入団。背番号は9。松坂大輔と再びチームメイトとなった。 西武時代1999年、フレッシュオールスターゲームに先発出場し、一軍にも昇格、13試合に出場し、5盗塁を記録した。 2000年は高木浩之の不調もあり二塁での先発出場の機会もあったが、ルーズショルダーの影響もあり、2001年からは外野手に転向した。 2002年、元々右打ちだったが俊足を生かすためスイッチヒッターに転向する。 2003年は夏場以降好調で打率.250の成績を残した。 2004年は小関竜也の不調で終盤から二番打者に定着し、122試合の出場で初の規定打席到達。佐藤友亮との一・二番コンビで高い出塁率を誇った。過去5年間で3本しか打っていない本塁打をこの年だけで9本打った。プレーオフ、日本シリーズをいずれも勝ち抜いてチームとしては12年ぶりとなる日本シリーズ優勝を経験した。 2005年は二番・中堅手のレギュラーを獲得し、夏頃から打率を急上昇させた。打率.272、自己最高の131試合の出場で盗塁20を記録。またこの年の9月1日(25歳の誕生日)にオフィシャルサイト 「侍魂」 を設立。 2006年は主に1番または9番打者として堅実な打撃を見せ、出場124試合で打率は自己最高の.293を記録した。また、リーグ最多タイの三塁打7(西岡剛、鉄平、川﨑宗則と並ぶ)[2]、チーム3位(自己最多)の25犠打、3年連続2桁盗塁を記録した。この年も夏場から調子を上げ、交流戦以降の打率は3割を超えた。 2007年には松坂大輔がボストン・レッドソックスに移籍したため、代わって選手会長に就任したが、開幕直前の3月15日に右太ももを痛め、リハビリに時間がかかり、シーズン終盤の9月5日に一軍登録。しかし出場20試合で打率は.162に終わり、レギュラー再獲得はならなかった。 2008年4月25日のオリックス・バファローズ戦では自身初のサヨナラ満塁本塁打を放ったが[3]、同年5月1日の福岡ソフトバンクホークス戦で大飛球を追ってフェンスに激突[4]、左足首関節捻挫で長期離脱を余儀なくされてしまう。この年も前年より出場機会を増やしたが68試合に留まった。同年のクライマックスシリーズでは12打数6安打、1本塁打、3打点を記録。日本シリーズでは後藤武敏との併用ながら11打数3安打という数字を残し、球団史上初のアジアシリーズ制覇も経験した。 2009年はレギュラーを取り戻すまでには至らず代走や守備固めなどで57試合に出場した。 2010年2月18日、阿部真宏との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍[5]。トレード直前の2月5日にオリックス外野手の小瀬浩之がキャンプ地で転落死し、外野手が手薄になったという事情があった[6]。背番号は4となった。 オリックス時代![]() 2010年は、オープン戦で阪神の藤川球児から本塁打を放つなど好調で二番・右翼手として開幕戦に先発出場を果たし、4月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦で6年ぶりとなる左打席での本塁打を小野晋吾から打った(2005年から2008年に記録した本塁打はすべて右打席で記録したものである。)。4月10日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で自身初の2打席連続本塁打、4月20日の北海道日本ハムファイターズ戦で移籍後初のサヨナラ安打[7]、5月18日の対広島東洋カープ戦では左右打席本塁打を記録するなど序盤は好調だったが[8]、次第に不調に陥り二軍降格する。その後は一軍と二軍を行き来し、この年は79試合の出場で打率.217に終わった。 2011年6月14日に一軍登録。主に七番打者として起用され、77試合に出場し規定打席には届かなかったものの、打率.305を記録した。同シーズンは楽天戦だけで3度のサヨナラ安打を記録しており[9]、そのうち7月5日にライアン・スパイアーから記録したものはオリックス球団(オリックス・ブレーブス以降)史上初の3試合連続サヨナラ勝利の3試合目に当たる[10][11]。7月10日に取得した国内フリーエージェント権を行使せずに2年契約を結び残留。オフに背番号を7へ変更。 2012年は開幕一軍入りを果たし、開幕第4戦目の4月3日、日本ハム戦で決勝打となる適時打を打ってシーズン初白星に貢献し、8月22日の日本ハム戦では2年ぶりの本塁打も打ったものの、シーズン全体では26試合の出場に留まった。2013年1月25日[12]に八木智哉と糸井嘉男との交換トレードで、木佐貫洋・大引啓次と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍した[13]。背番号は10となった。 日本ハム時代![]() (2013年、阪神甲子園球場にて) 2013年は57試合に出場し、限られた出番で打率.273の成績を残した。 2014年はわずか8試合の出場に終わった。シーズン終了後に戦力外通告を受け、10月22日に球団から退団が発表され、一旦は現役続行の意思を表示したが[14]、同月27日に現役引退が発表された[15]。 現役引退後2014年10月29日、埼玉西武ライオンズに翌2015年から新設される「二軍育成コーチ」への就任が発表された[16]。背番号は77。その後、2017年からは二軍打撃兼外野守備走塁コーチ[17]に配置転換された。 2017年に台湾で開催された2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBウエスタン選抜の打撃コーチを務めた[18]。 2019年からは背番号を86に変更。同年からは一軍打撃コーチを[19]、2022年は二軍外野守備・走塁コーチを務め、2023年シーズンから一軍外野守備・走塁コーチを務める[20]。2025年からは二軍野手コーチに配置転換された。 選手としての特徴・人物左打席では高い出塁率、右打席ではパンチ力を生かした打撃と3年連続2桁盗塁を記録した俊足を武器としている[21]。 プロ入り後にスイッチヒッターに挑戦したが、同じ境遇にあったチームメイトの松井稼頭央の打撃を参考に死にもの狂いで練習し、自分の物にした[21]。 森本稀哲は上原浩治の公式YouTubeチャンネルにて、松坂世代ベストナインの左翼手として赤田の名前を挙げている[22]。 西武同期入団で同学年の松坂大輔とは親友[23]。 スポーツマンNo.1決定戦スポーツマンNo.1決定戦には2000年の第6回に19歳で初出場。その後2005年(第11回)、2006年(第12回)、2007年(第13回)、2008年(第14回)と5回出場し、最高成績は第11回大会の総合2位[24]。
その他詳細はスポーツマンNo.1決定戦 総合順位 種目別順位の項目を参照。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰
記録
背番号
登場曲
脚注
関連項目外部リンク
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