詰碁詰碁(つめご)とは、囲碁の部分的な死活を問う問題のこと。将棋の詰将棋に対応するもの。 詰碁は死活のからむ問題に用いられ、死活に関係なく局所的な得を図るような問題は手筋問題といわれる。 概要白黒の石が置かれた囲碁の盤面の一部(まれには全部)と、手番(「白番」、「白先」もしくは「黒番」、「黒先」)が示され、どのように打てば自分の石を生きにもちこめるか、または相手の石を殺すことができるか、すなわち死活を考えるものである。 詰碁で石のパターンを覚えることにより、実戦に類似した形が生じた場合に短時間で対応できるようになる。読みの力を養うトレーニングともなることから、棋力の向上の手段としてプロ棋士も推奨している[1][2][3]。 たとえば、黒番で黒の石を生かす問題は「黒先活(くろせんいき)」、白の石を殺す問題は「黒先白死(くろせんしろし)」という(白番の場合は、「白先活(しろせんいき)」、「白先黒死(しろせんくろし)」)。また、最善の手順を尽くすとコウになる(コウに勝ったとした場合にのみ自分の石が生きられる/相手の石を殺せる)問題もあり、それらは「黒先コウ」「白先コウ」という。詰碁の問題集では結果(たとえば「黒先コウ」)まで書いているものもあるが、「黒先」か「白先」のみが示されていることの方が多い。結果が書かれていないものでは、最善の結果になる手を答える。たとえば、黒先の問題で、白の無条件死になる手順と、コウになる手順があったとすると、無条件死の手順を示さなければ正解とならない。 なお、コウが発生する死活について、昭和初期までは問題図の範囲でコウダテ・コウとりを争い、片側のコウダテがなくなった時点で、「コウ負け」「コウ勝ち」と判定をしていた[4]。コウが発生した時点で打ち切りするのは、昭和30年代からの風習である[4]。 詰碁の難易度は様々で、初級者でもすぐ解けるものから、プロ棋士が何日もかかるような難問もある。「3分で解ければ初段」などと、棋力の目安のついた問題などもある。詰碁の問題集は初心者向け、上級者向け、実戦に近い問題、通常の対局では現れない形の問題など対象者ごとに出版されている。 詰碁と同様に手筋の問題集も出版されている。 例題
解答解答 1: 1が「二の一」と呼ばれる急所で、本問では白にここを打たれるとどう打っても生きられない。黒1・3に打った左側に一眼できるのを白は防げない(黒がaに打てば一眼できるのは明らかであり、白がここに打ったとしても取られる)ため、右側に作ることができる一眼と合わせて二眼の生きとなる。白2で3に打つのは黒2でやはり生き。 解答 2: 3の後、ダメヅマリにより白はaに打つことができない(まとめて取られてしまう)。白の2手目が3なら黒2でやはり白死(欠け眼になる)。なお、黒が初手で2に打つと白1 黒3 白aで失敗(白活き)となる。 解答 3: 黒5:手抜き 多くの詰碁では最後に置かれる石が回答者のものとなるが、先に打った方が死ぬ状態であるセキ活きの場合は例外であり、最後は回答者の手抜きで正解となる。 歴史詰碁は、囲碁の死活を独立させたもので、古くから棋書の一部として存在した。中でも元に成立した『玄玄碁経(げんげんごきょう)』(1349年)が有名。明時代には『官子譜(かんずふ)』が作られた。この時代には詰碁を「珍瓏(ちんろう)」と呼んでいる。また中国ではヨセを官子と呼ぶ。(「詰碁」の語はおそらく「詰将棋」の影響によって日本で作られたと考えられる。囲碁の死活には「詰める」という言葉を使わないため)中国では詰碁という言葉は用いられず「死活問題集」「攻防問題集」「手筋問題集」「官子(ヨセ)問題集」「布局問題集」という用語が使われてきた。 日本では、1713年、井上道節因碩により『囲碁発陽論』が作られた。これは難解なことで有名だが、作成当時は井上家門外不出の書とされていた。1812年には林元美により『碁経衆妙(ごきょうしゅうみょう)』が出版された。 近代になると、職業棋士が、雑誌、新聞などで継続的に詰碁を発表するようになる。有名な詰碁作家として前田陳爾、橋本宇太郎、呉清源、加田克司、石榑郁郎、石田章、張栩らがいる。また数は多くないがアマチュアの作家(塚本惠一ら)も活躍している。 詰碁名作ベストテン詰碁名作ベストテンは、前田陳爾が昭和47年に『棋道』誌に連載したエッセー(『詰碁の神様 前田陳爾傑作集2』に再録)。 となっている。 その他現在は「珍瓏」といえば、盤面の全体を使った問題を指す。「珍瓏」では「この石が取れるか?」といった条件付きの問題も認められていて、定められた石をアタリの連続で(主にシチョウを使って)追うものもある。中山典之が多くの作品を発表している。 脚注
参考文献事典類
入門書
関連項目外部リンク
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