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沖島 (海防艦)

ロシア時代(1902年)
艦歴
起工 1894年10月24日
進水 1896年5月12日
竣工 1899年ロシア海防戦艦として竣工
就役 1905年6月6日
命名[1]および日本海軍籍に編入[2]
除籍 1922年4月1日[3][4]
その後 民間に払い下げ、後に座礁、解体
性能諸元(1920年
排水量 常備:4,126トン[5]
全長 垂線間長:80.62m (264ft 6in)
全幅 15.85m (52ft)
吃水 5.18m (17ft)
機関 円缶4基
直立3気筒3段膨張レシプロ
2軸 6,000馬力
速力 15ノット
航続距離
燃料 石炭 313トン
乗員 62名
兵装 露式45口径25.4cm連装砲塔 1基
露式45口径25.4cm単装砲塔 1基
露式45口径12cm単装砲 4門
露式8cm砲 10門
保式短8cm砲 2門

沖島(おきのしま)は、日本海軍海防艦[1]。艦名は対馬海峡の沖、玄界灘に浮かぶ沖ノ島から命名と推測される[6][7]

ちなみに艦名は初代であり、2代目は敷設艦沖島」である[8]

前身は1896年(明治29年)にロシアの新アドミラルティ造船所[9]で進水したロシア海軍アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン(Генерал-адмирал Апраксин)」[1]

艦歴

ゲネラル・アドミラル・アプラクシン

1894年10月12/24日[10]、建造開始[11]。1895年5月20日/6月1日起工[11]。1896年4月30日/5月12日進水[11]

1899年8月、公試完了[12]。それからコペンハーゲン訪問に向かい、8月16/28日に到着[12]。9月14/26日まで同地に滞在した後、クロンシュタットへ向かった[13]

11月12/24日、冬季の滞在地であるLibavaへ向けて出港[14]。悪天候で実際よりも南へ流されていると判断した結果、11月13/25日3時にゴーグラント島南東部で座礁した[14]。「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は巨石に乗り上げ、艦底に27平方メートルほどの穴が空き700トンほどの浸水が生じた[14]。離礁できたのは翌年4月のことであり、5月6/18日にクロンシュタットに着き、修理を受けた[15]

「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)としてウラジオストク回航中の1905年(明治38年)5月28日、日本海軍に降伏した(日本海海戦[7][16]。8月31日/9月13日、除籍[17]

沖島

1905年6月6日、日本海軍は鹵獲したロシア軍艦5隻を改名する[18][19]。「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」と改名される[1][20]。 同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)はそれぞれ軍艦籍に編入された[2][21]。 本艦は、佐世保鎮守府在籍となった[3]樺太作戦のために新設された第四艦隊の第七戦隊に組み込まれ、陸軍輸送艦の護衛に当たっている。同年11月16日、アプラクシン(沖島)のロシア海軍将校より贈られた蓄音器譜面幻灯種板が、西郷従義(当時海軍中尉)を通じて、裕仁親王(昭和天皇、当時4歳)秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王に献上されている[22]

主砲は艦前方に45口径25.4cm連装砲塔を1基、艦後方に45口径25.4cm単装砲塔を1基の計3門(姉妹艦の「見島」は、同型砲を計4門搭載)[23]。その後、「沖島」は副砲の換装をおこなっている[24]第一次世界大戦では第二艦隊・第二戦隊に所属し、青島方面で作戦に従事した[7]

1922年(大正11年)4月1日、除籍[3]。 各艦と共に艦艇類別等級表からも削除[4][25]。 本艦は雑役船となり、佐世保海兵団の練習船として使用された[26]

1924年(大正13年)に廃艦となり、翌年に日本海海戦戦跡保存会に払い下げられた。福岡県津屋崎町の町長・議会及び福岡県知事柴田善三郎の請願により[27]、海岸に係留され記念館として保存する予定であった[28][29]。だが、荒天時に座礁して破壊された。その後1939年(昭和14年)に現地で解体された[30]

余談

日本海海戦時において、当時の日本ではロシアの艦名が記憶できず、安保清種らの手によって特異的な呼び方をしていた。このゲネラル・アドミラル・アプラクシンは「油布巾」と訳されていたという[要出典]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

日本海軍
  • 釜屋忠道 大佐:1905年6月14日 - 12月12日
  • 石井義太郎 大佐:1905年12月12日 - 1907年10月15日
  • 秀島七三郎 大佐:1907年10月15日 - 1908年2月20日
  • 牛田従三郎 大佐:1908年2月20日 - 4月7日
  • 大沢喜七郎 大佐:1908年9月25日 - 11月20日
  • 森越太郎 大佐:1909年7月9日 - 1910年12月1日
  • (兼)松岡修蔵 大佐:1910年12月1日 - 1911年2月14日
  • (兼)森越太郎 大佐:1911年4月1日 - 1912年2月1日
  • (兼)上村経吉 大佐:1912年2月1日 - 1913年5月24日
  • (兼)堀輝房 大佐:1913年5月24日 - 5月29日
  • (兼)堀輝房 大佐:1914年12月1日 - 1915年6月30日
  • (兼)野村房次郎 大佐:1915年6月30日 - 1916年12月1日
  • (兼)古川弘 大佐:1916年12月1日 - 1918年7月17日
  • (兼)新納司 大佐:1918年7月17日[31] - 1919年2月12日[32]
  • (兼)平岩元雄 大佐:1919年2月12日 - 8月5日
  • (兼)大見丙子郎 大佐:1919年8月5日 - 1920年11月20日
  • 太田千尋 中佐:1920年11月20日 - 1921年8月6日
  • (兼)井手元治 大佐:1921年8月6日 - 11月20日
  • (兼)有沢四十九郎 大佐:1921年11月20日[33] - 12月1日[34]
  • 鈴木八百蔵 中佐:1921年12月1日[34] -

脚注

  1. ^ a b c d #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 イハ|戰艦「インペラートルニコライ」第一世 |海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 オキノシマ|海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 シマ
  2. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.52『明治三十八年六月六日(達七六)軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス』
  3. ^ a b c #達大正11年4月(1)pp.1-2『達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  4. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.59『大正十一年四月一日(達四八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  5. ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると竣工時の要目は排水量4,200トン、10インチ砲3門。
  6. ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p523-524。当時の捕獲艦の艦名はそれにちなんだ地名が付けられた。沖ノ島の名は全国にあるが日本海海戦の戦場となった場所にある島名を取ったと推測している。
  7. ^ a b c #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.68『沖島(おきのしま)【初代】 艦種二等海防艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考島峡名に採る、沖島は筑前國宗像郡に属す、鐘岬の西北西凡そ40浬に在り、小呂島の北凡そ27浬、長門國豊浦郡神田埼の西凡そ42浬に當り、對馬と馬關海峡の間にあり。艦歴明治29年露國聖被得堡造船所にて進水したる舊露國軍艦、原名「ゲネラル・アドミラル・アプラキシン」、日露戰役中、「バルチック」艦隊の一艦として日本海々戰に参加、同38年5月28日竹島(日本海の孤島)の南西沖合にて我が艦隊之を捕獲、同年6月6日帝國軍艦と定め「沖島」と命名、大正3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同年3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長中佐鍵和田 専太郎)、同11年4月1日除籍。』
  8. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.147『沖島(おきのしま)【二代】 艦種敷設艦 艦歴昭和9年9月27日播磨造船工場にて起工。〔註〕初代沖島は海防艦(p.103)参照。』
  9. ^ 『日本海軍史 第7巻』p392によるとセント・ピータースブルグ造船廠。
  10. ^ ユリウス暦/グレゴリオ暦
  11. ^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 50
  12. ^ a b "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 57
  13. ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", pp. 57-58
  14. ^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 58
  15. ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 59
  16. ^ #日露戦役海軍写真集(2)p.48『日本海の降伏艦アブラキシン 日本海々戰中、敵の第三艦隊司令長官子ボカドフが率ゐて我軍に降りたる艦隊中、是れは其巡洋艦アブラキシンなり、今は沖ノ島と改稱して、我が艦隊の中に加へらる。』
  17. ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 65
  18. ^ #達明治38年6月p.2『達第七十三號 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛|戰艦アリヨール イハ|戰艦インペラートルニコライ第一世 |海防艦ゲネラルアドミラル、アプラキシン オキノシマ|海防艦アドミラル、セニヤーウヰン シマ
  19. ^ #達明治38年6月p.2『達第七十四號 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰利驅逐艦「ビヱードウヰー」ヲ皐月サツキト命名ス』
  20. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 110a-112「見島」(セニャーウィン)と「沖島」(アプラクシン)
  21. ^ #達明治38年6月p.3『達第七十六號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
  22. ^ #昭和天皇実録第一124頁『(明治三十八年)十一月十六日木曜日 午前、海軍中尉西郷従義(皇太子御学友)参殿にき、謁を賜う。西郷は日本海海戦において捕獲したロシア軍艦アブラキシンの将校より贈られた蓄音器譜五枚・幻灯種板九十九枚を裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王へ献上する。(以下略)』
  23. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 111.
  24. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 112.
  25. ^ #達大正11年4月(1)pp.2-3『達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  26. ^ 大正11年4月1日(土)海軍公報(部内限)第六百十號 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070284800 『○令達 官房第一一七五號 舊軍艦周防、津輕、沖島、橋立、舊驅逐艦陽炎、舊水雷艇燕、雁、蒼鷹、鴿、第六十七號、第六十八號、第七十號、第七十一號各水雷艇及舊特務艇叢雲、夕霧ハ之ヲ雑役船ニ編入シ其ノ種類、船名、公稱番號及所属當左ノ通定ム 大正十一年四月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|練習船|沖島(舊軍艦沖島)|佐世保海兵團|』
  27. ^ #廃駆逐艦拂下pp.1-2『左記 一.本件ハ福岡縣宗像郡津屋崎町ニ拂下ケラレタル旧軍艦沖島ト全然趣ヲ異ニシ沖島ハ津屋崎町々會決議ニヨリ同町長ノ請願並同縣知事ヨリノ出願有之慎重審議ノ上同町ニ指名拂下ケラレタルモノニ有之』
  28. ^ #払下(1)pp.13-14『兵第三.三四三号 大正十三年十二月十五日 福岡縣知事柴田善三郎 海軍大臣財部彪殿 軍艦拂下ノ件ニ関シ副申(以下略)』
  29. ^ #払下(1)p.36(繋留予定地図)
  30. ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p524、『日本海軍史 第7巻』p392。
  31. ^ 『官報』第1788号、大正7年7月18日。
  32. ^ 『官報』第1957号、大正8年2月13日。
  33. ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
  34. ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。

参考文献

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74401-5 
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
  • 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 歴史群像編集部編「第10章 鹵獲艦と賠償艦 「鎮遠」から「オルデンドルフ」まで」『決定版日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第1輯』博文会、1905年9月。 
    • 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第2輯』博文会、1905年10月。 
    • 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第3輯』博文会、1905年11月。 
    • 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第4輯』博文会、1906年7月。 
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。 
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。 
    • 『39年9月18日 軍艦沖島夏季演習記』。Ref.C11081663200。 
    • 『軍艦沖島連合冬季演習に関する所見』。Ref.C11081732800。 
    • 『払下(1)』。Ref.C08051481600。 
    • 『払下(2)』。Ref.C08051481700。 
    • 『廃駆逐艦拂下に関する件』。Ref.C04021867000。 
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。 
    • 『大正11年 達 完/4月(1)』。Ref.C12070080200。 
  • Stephen McLaughlin, "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", Warship International Vol. 48, No. 1, International Naval Research Organization, 2011, pp. 43-66

関連項目

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