木暮実千代
木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、日本の女優。身長159cm。本名:和田 つま(わだ つま)。 来歴・人物父が税関で山口県下関市彦島福浦町で生まれた[1]。英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて[2]、1938年に松竹に入社。松竹入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。 日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かった。 1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉[3][4]と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡った。終戦にあたって厳しい道中を乗り越えて帰国し、翌年の1947年松竹に復帰して女優業を再開した。 妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中では精彩を放つ存在となり、特に1949年の『青い山脈』での芸者役で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。妖艶な「ヴァンプ女優」として名を馳せた。 生涯にわたって350本以上の映画に出演した。 CM出演した女優第一号でもあり、ジュジュ化粧品では「マダム・ジュジュ」、三洋電機では「サンヨー夫人」として長年親しまれた[5]。 ボランティア活動にも熱心で、1957年に群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任。 1960年から銀座で社交的に必要な文化的教養、マナー、美容など全般を教えるフィニッシングスクールを開講する。 1967年からミス日本コンテスト事務局理事に就任。 1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させていた。 1990年6月13日、心不全のため死去。享年73(72歳没)。没年月日を以て没後追贈の形で勲四等瑞宝章を授与された[6]。 役柄のイメージとは異なり、実生活では良妻賢母であった。墓所は東京都文京区の龍泉寺[7][6]。 エピソード映画会社にオーディション用の写真を送ったが、採用には至らず、3位には入ったという。これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田國士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、日本大学芸術学部に入学。日大在学中、江の島のカーニバルの野外劇で「弁天さん」に扮した芝居に出演したのがきっかけで、1938(昭和13)年、在学中、にスカウトされ松竹に入社したのが映画人生の始まりだったという。このときのスカウトから「ワンカットだけ出演してみないか」といわれて、看護婦の一人として出演したのが『愛染かつら』(川口松太郎の同名小説の映画化)の後編『続愛染かつら』(1939年)であった。 自ら「木暮劇団」を率いて年3回地方公演を行い、社会福祉運動の資金集めに奔走した。終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもお食べなさい。靴は磨かなくていいのよ。体に気をつけてね」と言って100円札を2枚渡した。その少年はのちにアメリカへ渡り、苦学して大学を卒業、高校の教師となった(後年に木暮と交流があり、余命いくばくもない木暮に会うためにアメリカから帰国して再会を果たした)。 通夜の日には保護司として面倒をみた人の「先生!」と泣き叫ぶ人が跡を絶たず、出棺まで泣き続けた人や「ぼくのお母さん!」と叫び泣く中国人留学生たちも大勢いたという。 映画界における「良きライバル」とされた高峰三枝子の息子が1977年に覚醒剤容疑で検挙され、四面楚歌に立たされた高峰親子に暖かい手を差し伸べ、保護司として監督下に置き、立ち直らせた。 檀れいは「溝口健二作品の木暮さんが憧れ」と語っている。 しばしば「小暮実千代」と誤記される。 曽祖父は徳川家の旗本を務め、明治時代に入ってからは東京で「和田牛乳」という牛乳屋を開業した[2]。 主な出演映画
テレビドラマ
バラエティー
著書
脚注
関連文献
関連項目外部リンク
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