朝鮮八道
朝鮮八道(ちょうせんはちどう)は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島に置いた8つの道(行政区画)。 400年以上にわたって同一の区分が用いられたため、「八道」は転じて「朝鮮全土」のことも指した。鶏林八道(けいりんはちどう)[注釈 1]と呼ぶ事もある。8つに区分された道は、現在も地域的なまとまりとして捉えられている(朝鮮の地方)。 概要(八道四都)朝鮮八道とは、以下の8つの道である。「首都近郊」を意味する京畿道を除く7つの道の名は、主要な2つの都市の名を並べたものである。かつて鶏林八道と称されるともに、各道について別称の表記もみえる。
朝鮮王朝によって、道には外官職(地方役人)が置かれた。長官は観察使(監司、巡察使とも。従二品)と呼ばれ、次官である都事の補佐を受け、軍司令官である兵使・水使の協力を得て地方統治を行った。 また八道のうち、首都の漢城(漢陽・ソウル)、及び開城・江華・水原・広州の各地(四都)は中央行政の直轄地であった。いずれも地理的には京畿道に属するが、この地の役人は「留守職」といい、京官職(中央役人)が置かれた。 沿革朝鮮王朝の地方行政区分は、高麗時代の地方行政の枠組を改変して編成されている。高麗建国当初は古代日本の国造制に近い制度であったが、中期に地方行政制度が整備され中国・唐の制度に起源を持つ「道」を行政区画に用いるようになった(五道両界制)。全羅道・慶尚道はこのときに生まれた名称と地域を引き継いでいる。高麗末期には区画改変が行われた結果、京畿道の名称が生まれた。 朝鮮王朝の初期に満州との境の辺境地域(現在の中朝国境)の攻略が進められると、西北面に平安道(1413年)、東北面に永吉道(1414年)が設置された。永吉道は、咸吉道・咸鏡道・永安道などの改名を経て、1497年以降咸鏡道の名が定着した。 高宗32年(1895年)、甲午改革の一環として地方行政制度の改編が行われ、勅令第98号によって八道は廃止され、日本の府県制度をモデルに23の府(長官:観察使)が置かれた(二十三府制)。しかし、翌高宗33年(1896年)8月4日の勅令第36号により、二十三府は廃止されて道が復活した。このとき、京畿道・黄海道・江原道を除く5道が南北に分割され、十三道となった(十三道制)。 1910年に日本による韓国併合が行われるが、日本統治時代でも朝鮮全域を13の道に分割する区画はそのまま受け継がれた。 第二次世界大戦後、朝鮮半島に南北2つの政権ができると、道の分割や、特別市・広域市などの分離などが行われている。 朝鮮の地方行政区画の変遷八道と十三道、ならびに現在の行政区画の対比表は、おおむね以下の通りである。
脚注注釈関連項目 |