月形半平太『月形半平太』(つきがた はんぺいた)は、行友李風作の戯曲および、同作の主人公の名。1919年(大正8年)、新国劇による京都明治座での公演が初演である[1]。新国劇を代表する作品として『国定忠治』とともに知られ、本作を原作にした映画・テレビドラマが多数製作された。 主人公の「春雨じゃ、濡れて行こう」のセリフが流行語となった[2]。 概要1917年(大正6年)、島村抱月主宰の芸術座を脱退した澤田正二郎、倉橋仙太郎、金井謹之助らにより結成された「新国劇」は旗揚げ公演に興行的に失敗し、大阪に赴き、翌1918年、行友李風を座付き作者として迎える。そこで書かれたのが、『月形半平太』および『国定忠治』である。1919年4月1日-14日の京都明治座での初演で大好評を得、また同年、『国定忠治』も大阪弁天座での初演[3]が大好評、この2作は「新国劇」の財産演目となる[4][5]。澤田は「剣劇」(殺陣)を演じたいために新国劇を立ち上げたわけではなかったが、『月形半平太』がたまたま受けたために、新国劇は以降「剣劇」の演目が増えていった[6]。 本作は幕末維新期を題材にした最初の作品ともいわれ[1][7]、それまでの尾上松之助劇にはほとんど存在しなかった時代設定であった[1]。この『月形半平太』の影響で幕末維新期を題材にした映画が流行した[1][7]。特に映画化第一作である1925年衣笠貞之助監督版で描かれた勤王佐幕の暗殺合戦が大きな人気を呼び[7]、直ちに再映画化された翌1926年には、『尊王』『幕末』『義になる虎徹』『乱闘の巻』『修羅王』『勤王か佐幕か』など[7]、"幕末もの"のチャンバラ映画が続々作られブームになった[7]。 主人公の名前「月形 半平太」は、福岡藩士月形洗蔵(1828年 - 1865年、37歳没)と土佐藩士武市半平太こと武市瑞山(1829年 - 1865年、35歳没)の姓と名をとって合成したものとされる[8]。一方、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父でもある長州藩士國重正文に関わる口伝として(1)國重正文は、明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた(2)桂小五郎は、幕府の追手より逃れるために月形半平太と変名していた――等の秘話を伝えており[9]、月形半平太という名前が桂小五郎の変名として使われていた可能性を示唆している。なお、國重正文が桂小五郎と一緒に行動していたことは『木戸孝允文書』(日本史籍協会叢書)等で裏付けられる。 映像作品映画1925年の第一作以来、16回映画化されている。うち長谷川一夫(旧芸名:林長二郎)が3回演じ、衣笠貞之助が3回(うち1回は応援監督)演出している[10]。 ![]()
1925年版
新国劇の決定版キャスト、衣笠貞之助監督、直木三十五・マキノ省三プロデュースによる作品。 テレビドラマ
その他の関連作品
関連事項脚注
外部リンク |