日本国有鉄道の荷物運送日本国有鉄道の荷物運送(にほんこくゆうてつどうのにもつうんそう)とは、旅客列車に併結しての輸送(旅客局扱)を指し、貨物列車によって輸送される貨物(貨物局扱)と対比される[1][2]。荷物扱いには、さらに以下に区分される[3][4]。 これらは旅客列車に荷物車を連結して輸送し、旅客ホームにて旅客と一緒に扱われた[注釈 1][3][1]。荷物専用列車の時刻は一時期、市販の旅客用時刻表にも時刻が掲載されていた[注釈 2]。 なお旅客が鉄道に託送手荷物を預ける際には、手荷物符票(チッキ, チェッキ[注釈 3])が発行される[8][9][4][7]。 →手回り品については「持ち込み手荷物 § 鉄道」を参照
規定
旅客列車による運送規定は以下の通り。
なお貨物については、貨物運送規則第4条により「貨物の扱い種別は、小口扱及び車扱いとし、荷送人の選択によつて定める」と区分されていた[11][1]。 この法律は、2024年(令和6年)現在でも有効であり、総務大臣の要求があれば、JR6社は何時でも専用客車を用意し、長距離普通列車を運転して郵便物の逓送を行わなければならない。ただし、1986年11月以降は、同法第5条3号により日本航空、全日本空輸など定期航空会社にその役割が取って代わられている。 →詳細は「日本の客車史 § 12系以後」、および「航空扱い § 輸送事業者」を参照
歴史明治時代から長年、郵便小包とともに小口荷物輸送の一翼を担っていた[9]。 明治→「日本の鉄道開業」も参照
鉄道による少量物品輸送は明治時代に鉄道開業と共に始まった。1872年(明治5年)7月18日には、鉄道による品川 - 横浜間郵便物輸送が開始された[12]。同年10月14日には、新橋 - 横浜間で鉄道が開業すると同時に手荷物運賃が設定され、旅客が携行する物品輸送が開始された[注釈 4]。 翌1873年(明治6年)9月15日には、鉄道貨物運送補則において小荷物運送方と運賃が制定され、旅客以外の者の委託を受けて少量物品を輸送する託送貨物制度が開始された[12]。
大正一定量までの手荷物は無償で預けることができた。
1919年(大正8年)には、新たに南満州鉄道との間に連絡運輸が開始された。 戦時体制第二次世界大戦中の1942年には荷物運送一元化が行われ、小口貨物は「小荷物扱貨物」と「小口扱貨物」に区分された[15]。また小荷物扱貨物は、原則として10kg以下と定められた[1]。 さらに 1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、長距離旅客の制限等に併せて託送手荷物制度は全廃、小荷物扱い貨物に一元化された[16]。 戦後戦後は制度が復活したものの全面有料化され[7]、終戦直後には急速なインフレーション進行に伴う物価高騰に対応するため、度々値上げが繰返された。1970年代に入ると国鉄の運営と国鉄労働組合・国鉄動力車労働組合の関係が悪化、激しい労働争議が頻発した。これが荷主からの信頼を失う結果となる。加えて、国鉄による少量品輸送そのものが、貨物局が取扱う小口貨物と旅客局が取扱う手小荷物とで重複して運営されており非効率的であると言う批判が内部からも取沙汰されていた。 このことから国鉄では「小口貨物輸送改善」が行われ、1974年(昭和49年)10月ダイヤ改正に合わせて小口扱貨物を「普通扱第二種荷物」として手小荷物に統合し、国鉄による少量品輸送を旅客局の運営する手小荷物営業に一本化する、いわゆる「荷貨一元化」が行われた[1][17]。
1976年(昭和51年)にヤマト運輸が「宅急便」の名称で宅配便サービスを開始したことや、新聞輸送のトラック輸送への転換や全国紙現地印刷開始により、取扱個数が減少に転じた。これに対抗するため1982年(昭和57年)には集配サービスを付加した「宅配鉄道便Q」(人気漫画「オバケのQ太郎」をキャラクターに起用)を開始し、1985年(昭和60年)にはさらに取次店での荷物引受サービスを加えた「ひかり宅配便」の取り扱いを開始したものの凋落に歯止めはかからず、1986年(昭和61年)に鉄道小荷物サービスが廃止された。 この後、駅構内で旅客の手荷物を車廻りまで運ぶ独特の服装の赤帽も姿を消した。 手順手荷物初期は、係員は乗客の手荷物を預かった際には、乗車券に(手荷物)というスタンプを押し、チェッキを発行した[9]。手荷物を受け取る際には、チェッキと引き換えとなった[9]。 手荷物が全面有料化されると、チェッキは手荷物切符となった[7]。 小荷物小荷物について、当時の国鉄営業規則では次のようになっていた。いずれも1980年当時のものである。
運賃
重量や輸送距離により変動する。また、発送駅から到着駅までの運賃は旅客同様最短距離によるが、私鉄駅からの発送の場合は私鉄線の運賃も加算された。 手荷物手荷物の運賃は、1946年3月までは一定重量までは無料であり、それを超える場合には重量または個数に応じて運賃を収受していた[7]。。手荷物運搬業者(赤帽)による運搬の場合は、旅客一人当たり5銭であった(1924年)[5]。 1946年4月からは無料運送は廃止され、すべて有料化された[7]。
小荷物
特別扱荷物新聞及び雑誌については日本国有鉄道荷物営業規則において、国鉄当局の認可を得て「特別扱運送契約」を締結することで特別な取り扱いを行った上で小荷物扱いで輸送された[15]。この承認を受けた新聞は題字付近、雑誌は表紙の最上部に「国鉄首都特別扱承認」「国鉄東局特別扱承認」等の文言と承認番号が入れられていた[15] これらの特別扱を受けた場合にはゾーン別運賃では無く全国一律の特別運賃が適用され、一般の荷物より安価に輸送出来た[注釈 5]。この特別扱による恩恵が大きかったのが雑誌であり、雑誌は鉄道により全国に届けられ普及することになった。しかしながら国鉄の労使紛争が極度に悪化し輸送混乱が生じると地方への雑誌の到着が極端に遅くなる等したため、トラックによる輸送に切替えられて姿を消して行った。 なお、付録つき雑誌の場合、この扱いを受ける場合には紙素材の付録に限られていたため、1970年代までの『りぼん』や『なかよし』などの付録付きマンガ雑誌では、その制限の下で付録が工夫されて行った。 今日的な評価明治から戦後間もない時期の日本においては、近代的な道路網の整備が遅れていたことも関係して、荷物輸送における鉄道の重要性は非常に高かった。しかし、一方では社会環境の変化に伴い、旅客鉄道の速度向上が求められ、駅ごとに荷物積卸を行う荷物輸送がその障害と見なされたこと、もう一方では、道路網の整備が進んだことで路線トラック事業者が小口荷物の配送事業に進出したことにより、荷物輸送における鉄道の重要性は1970年代 - 80年代にかけて急速に低下していった。以上のような状況の中で、鉄道小荷物が宅配便に対して後れを取った大きな理由として、集配サービスにおける柔軟性の欠如が挙げられる。 個人による物品輸送は、基本的に差出人の家から受取人の家までの輸送を基本とする。しかし、鉄道小荷物は基本的に発駅―着駅間における輸送が主であり、差出人の家から発駅までと着駅から受取人の家までの配送は、別建ての配送料金を支払わない限りは行われない附加役務と言う性質が強かった。また、当時の国鉄は集配事業を直接担うことが出来ないため、集配事業は日本通運や地方の運送事業者との間に契約を結んだ上で配送を委託していた。このため、集荷・輸送・配送サービスが一貫したネットワークの下において構築されていた郵便小包や宅配便に比べて効率性が低くコストが高くなりやすい特徴があった。 加えて、物資輸送はユニバーサルサービスとしての性質をも帯びることから、採算が取りにくい地方線区における荷物取扱も簡単には廃止することが出来ず、結果的に高コスト構造が温存される原因となった。70年代に宅配便が普及するまでは、ごく少量の物品(5キログラム以下)を運ぶ郵便小包とそれ以上の重量の物品を輸送する鉄道小荷物と言う棲み分けがなされており、特に郵便小包では扱えない5kg以上の小口荷物輸送に関しては鉄道の独占事業状態が続いていたため、上記のような問題は大きく取沙汰されることは無かった。しかし、宅配便の急成長が進んだことや、これに対抗するために郵政省が郵便小包の重量制限を緩和したことに伴い、郵便小包と鉄道小荷物との棲み分けが崩壊したことで収益バランスが崩れたことで鉄道小荷物輸送の高コスト構造が顕在化したのである。 日本の鉄道においては、その旅客輸送密度の高さ故に荷物輸送のためのスペース・人員・ダイヤを確保出来なくなったのが実情である。客室にも相対的にゆとりがあり、乗車中の手荷物託送の必要性は航空機や高速バス程には高くないが、乗り降り、ターミナル移動時等を含めると必要性が認められることも少なくない。 2020年代に入り、新幹線による貨客混載が試験的に行われている。 その他国鉄の小荷物営業に関連して、駅構内での荷物積下ろし業務や、トラックによる駅からの荷物集配業務等を受託する国鉄の関連企業があり、「鉄道荷物会社」と呼ばれていた。日本全国で21社存在したが、鉄道小荷物営業廃止の影響を受け、転廃業する社も生じた。存続している企業には「ジェイアール東日本物流(旧・東京鉄道荷物)」・「ジェイアール西日本マルニックス(旧・大阪鉄道荷物)」等がある。 鉄道小荷物輸送は、旧国鉄のみならず地方や、大都市圏の一部私鉄でも行われていた。旧東京地下鉄道(現・東京地下鉄銀座線)でも昭和初期に旧国鉄との連絡運輸を開始したのを機にチッキ扱いを開始したが、約10年間に発送が3個、到着が5個と言う状態だったため、1950年(昭和25年)にチッキ扱いは廃止された[21]。 脚注
出典
参考文献
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