献帝 (漢)
献帝(獻帝、けんてい)は、後漢の第14代(最後)の皇帝。諱は協。霊帝の次男で、少帝劉辯の異母弟。母は美人(側室)の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。 生涯幼少期生母の王栄は霊帝の寵愛を受けて、劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという[4]。母を失った劉協は、嗇夫の朱直によって暴室で養育された。一年後、霊帝の生母の董太后は劉協を引き取って養育したため、董侯と呼ばれた。また呂貴という乳母の名が『後漢紀』にみえる。おなじく『後漢紀』によると、既に当時、霊帝には嫡妻の何皇后が産んだ長男の劉辯がいたが、暗愚であったため皇太子に立てていなかった。そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。しかし霊帝は何皇后を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していたため、結局、劉協を後継者に指名できなかった。霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。蹇碩は董太后や董重とともに何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。 中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉辯が即位し(少帝)、劉協は勃海王に封じられた。劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにもかかわらず、父帝の死を悼み悲しんだ。その様子を見た大臣たちは皆心を痛めたという。同年秋7月、陳留王に移封される。 当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿[5]の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。袁術が雒陽城の南宮を攻めると、張譲らは中黄門に命じて宮殿の門を閉ざした。袁術が青瑣門(嘉徳殿の門)に火を放つと、張譲らは長楽宮に参内し、何太后・少帝・陳留王を連れて複道を通り、北宮の崇徳殿へ移った。しかし、袁紹の兵が北宮に攻め入って来たため、張譲・段珪は少帝と陳留王をまた連れ出し、僅かな供回りを伴い雒陽の北門(谷門)から逃げた。一行は夜に黄河の畔の小平津に辿り着いた。しかし、そこで尚書の盧植らが中常侍を討ち、少帝らを保護した。少帝と陳留王は、蛍の微かな光を頼りに夜道を数里歩いた後、ようやく民家で手に入れた露車(幌などの覆いが無い車)へ乗る事ができたという。北邙山の北まで来ると、少帝は馬に乗り換え、陳留王も河南中部掾の閔貢が御す馬に乗って帰還した。 雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は14歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。 皇帝に即位その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓によって掌握される。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された。間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。 初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した。遷都が実施されたのは、2月17日の事。献帝が長安へ着いたのは3月5日だった。この時、洛陽の民も董卓によって強制的に移住させられた。初平3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われたが、そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切ったが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し[6]、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。 興平元年(194年)春正月、元服。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬。興平2年(195年)2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた。3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。郭汜が李傕を攻めた際は、夥しい数の矢が射込まれ、献帝の傍近くにまで届いたという。 曹操の傀儡建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還[7]。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。 このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという[8]。また曹操は『孫子』の注釈者としても知られるが、もとのテキストにあった「率共」という語句を「率善」に改めている(作戦篇第2)。ちなみに「共」と「協」は同音である。 196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった[9]。建安19年(214年)には献帝の皇后伏寿が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。 後漢の滅亡建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった[10]。 皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を手放すことを拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き、玉璽を放り投げ涙を流した。その場に居た者は皆顔を上げられなかったといわれる[11]。 劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。 益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であることから曹操の魏王に対抗するため漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も後に呉国皇帝を称し、大陸が魏・呉・蜀漢とで三分される三国時代に突入した。 その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。 末裔劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が青龍2年(234年)に祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた西晋の時代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は太康6年(285年)に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は太康10年(289年)に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。 永嘉の乱の真っ最中の永嘉3年(309年)、劉秋は匈奴系の漢趙国(前趙・劉趙)の将軍である汲桑の軍によって殺害され、爵位は断絶した。後に東晋の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている。 真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる。 →詳細は「東漢氏」を参照
年表
宗室
后妃子女孫
曾孫
玄孫
脚注
参考資料関連項目
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