工藤紀夫
工藤 紀夫(くどう のりお、昭和15年(1940年)8月2日 - )は、囲碁の棋士。青森県弘前市出身、日本棋院東京本院所属、前田陳爾門下、九段。元日本棋院副理事長。 第25期王座・第23期天元位。第31回棋道賞優秀棋士賞受賞。若い頃は力碁で「眠狂四郎」のニックネームがあったが、後年粘り強く冷静な棋風へと変化した。 現在、存命の七大タイトル獲得経験者では最年長である。 経歴生後すぐ、家族とともに満洲にわたる[1]。日本の敗戦により、苦難の旅で弘前にひきあげる[1]。 小学1年生の時に囲碁をおぼえ、当時、妻の実家があった弘前に疎開していた勝本哲州(元「棋道」編集者)に師事する[2]。1952年に勝本が家族と上京する[3]。小学校卒業の1953年に勝本に誘われて上京し[3]、日本棋院院生となり、1955年入段して前田陳爾門下となる。1976年九段。 1960年、日本大学第二高等学校[4]卒。 大竹英雄・林海峰と並ぶ素材と期待され、若手時代はその3名で「三羽烏」ともよばれた[5]。だが、なかなかタイトル戦線に登場できなかったが、1977年に趙治勲を破って初タイトルとなる王座を獲得。 1997年、柳時熏を降して57歳で天元位を獲得、20年ぶりにタイトルホルダーに返り咲いた。 翌年小林光一に敗れてタイトルを失うが、翌々年再び挑戦権を得てリターンマッチに挑むなど、中高年の星として話題を集めた。 2011年10月6日、公式戦通算1000勝達成(613敗4ジゴ)[6]。史上16人目で、最年長での到達[7]。 1986年、日本棋院棋士会長[8]。 棋士間での人望も厚く、2002年に日本棋院常務理事。2004年同棋院副理事長、2005年~2006年理事長代行[9]。加藤正夫らとともに棋院改革に当たった。理事時代の2002年、コミを5目半から6目半に変えた。2005年、国際囲碁連盟(IGF)会長に就任。 また地元青森県で「工藤紀夫杯争奪囲碁大会」を開催するなど、アマチュアへの普及にも熱心なことで知られる。囲碁の他、将棋はアマチュア五段の腕前を持つ。 タイトル獲得歴
その他の棋歴新手「村正の妖刀」に対し、白1へと大々ゲイマに(通常の大ゲイマより一路広く)打つ手を開発している。1977年の本田邦久九段戦で初採用。妖刀定石の有力な変化とされている。初めて対するプロ棋士であると、黒が白の五目を取り、白が外勢をはる変化になりやすい。工藤がアマチュアの弟子に質問されて、そこから発想した手という。 工藤流黒番で1の星から3,5のシマリを打ち、白6のワリウチに黒7から9と構える布石を一時期多用し、「工藤流」と呼ばれた。 著作
エピソード
外部リンク脚注 |