岡本行夫
岡本 行夫(おかもと ゆきお、1945年〈昭和20年〉11月23日 - 2020年〈令和2年〉4月24日[1])は、日本の外交評論家[2](産経新聞「正論」メンバー)、実業家。元外交官。 内閣総理大臣補佐官(イラク担当・沖縄担当)、内閣官房参与、内閣総理大臣外交顧問等を経て、マサチューセッツ工科大学国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、青山学院大学特別招聘教授。位階は正五位。 略歴神奈川県生まれ。鎌倉市及び藤沢市で育つ。父親は農林省職員で、父親の仕事の関係で、中学時代2年間マレーシアの首都クアラルンプールに滞在した。 神奈川県立湘南高等学校を経て、1968年(昭和43年)に一橋大学経済学部を卒業し、外務省入省。板垣與一ゼミ出身。ゼミの同期に鈴木典比古が、1年後輩にいずれも外交官になった重家俊範、辻本甫、小野正昭らがいた。外務省同期に東郷和彦、馬渕睦夫らがいる。橋本宏は高校・大学・外務省の4年先輩。在アメリカ合衆国日本国大使館参事官、北米局安全保障課長、同北米第一課長など日米外交の有力ポストを歴任し、将来を嘱望される存在だったが、1991年(平成3年)に退官(辞職)した。管理職となって現場に関われなくなることに不満があったという[3]。なお、退官時の外務事務次官は栗山尚一、ナンバー2の外務審議官は小和田恒(皇后陛下の父)と渡邊幸治。 外交評論家として外務省退官後はコンサルタント会社「岡本アソシエイツ」を経営しながら、産経新聞の提言コラム「正論」欄の「正論メンバー」として定期的に執筆[4]。2019年6月ホルムズ海峡タンカー攻撃事件では翌7月『自国の船は自分で守れ』と題して「今度こそ自分の力で自国民を守るという課題に、正面から向き合うときだろう」と寄稿する[5]など、親米派の外交評論家として活動した。 また、第1次橋本内閣、第2次橋本内閣で内閣総理大臣補佐官、小渕内閣で科学技術庁参与、第1次小泉内閣で内閣官房参与、第2次小泉内閣で内閣総理大臣補佐官、第3次小泉内閣で内閣総理大臣外交顧問、福田康夫内閣で外交政策勉強会メンバーを務める等、政府要職も数多く歴任している。 特に橋本内閣においては、沖縄問題担当として60回以上に渡り沖縄入りして現地との信頼関係を築きながら、普天間基地の返還・代替地移設問題や沖縄振興策策定の最前線で活動したとされる[6]。2009年12月には、鳩山由紀夫内閣の普天間基地移設問題への対応で日米関係が悪化する中、鳩山由紀夫首相と総理大臣官邸で面会。知米派の岡本が個人的な立場から外交面で協力するとの合意をしたと報じられた[7]。 実業家・教育者として実業家としては、2000年に梅田望夫及びインド人、アメリカ人と4人でシリコンバレーのパロアルトにベンチャーキャピタル「パシフィカファンド」を設立し、ITベンチャーを支援。このほかアサヒビール取締役、三菱自動車監査役、三菱マテリアル取締役、日本郵船取締役、NTTデータ取締役等も歴任する。 2002年9月からは立命館大学客員教授として後進を指導。2005年立命館大学に「国際社会で活躍する人材養成特別プログラム」を立ち上げ、同じく元外務省の宮家邦彦立命館大学客員教授とともにスーパーバイザーを務め、外交官や国家公務員、多国籍企業など難関進路を志望で成績優秀な学生を選抜。講義やゼミナール指導、岡本行夫奨学金による海外研修などを実施している[8][9]。 2012年、NPO法人新現役ネット理事長などの職を退任し、渡米、マサチューセッツ工科大学国際研究センターシニアフェローに就任。2018年青山学院大学特別招聘教授の称号を受けた[10]。2019年立命館有功者表彰受賞[11]。 2020年4月24日に新型コロナウイルス感染症のため死去し、5月7日に報じられた[12][13]。74歳だった。死没日をもって正五位叙位、旭日中綬章追贈[14]。マイケル・グリーン、カート・キャンベル、リチャード・アーミテージなどから追悼の言葉が寄せられた[15]。 没後遺著となった『危機の外交 岡本行夫自伝』で、第34回アジア・太平洋賞「特別賞」が授与され、遺族が授賞式に参列した[16]。 人物原点は湘南高校3兄弟の次男で、3人とも「家のすぐそばだった」湘南高校に進学。「自分は(私学の)栄光学園に入る秀才タイプでもなく、ましてや慶應のお坊ちゃんでもない」といい、「(公立の)湘南(高校)は自由で徒党も組まず、そこには惹かれたかも」。 ただし、卒業後に兄は東京大学から三井物産に、弟も東大から米国ニューヨークの国際弁護士になった。岡本1人だけ一橋大に進学した理由について、湘南高で部活動のサッカーに熱中して成績が下がったためとしており、サッカー部も両親から忠告され高2の秋に退部した。「悔やみました。人生最大の敗北」で「不甲斐なくてね、その後、毎日家から海岸まで夜走った」といい、「高校時代に足腰を鍛えたおかげか、今でも健康ですよ(笑)」と、月刊誌Wedgeのインタビューに語っている[17]。 湘南高の同級生近藤誠一も外交官(第20代文化庁長官)となり、同窓の先輩の石原慎太郎(政治家で元東京都知事)と「よく飲みに行った」。後年石原は、後任の都知事に岡本を推したが辞退され、一橋大教授にも推薦したが、これも叶わなかった。後輩で国際政治学者の三浦瑠麗について「活躍は嬉しいですね。僕も新聞の対談で知り合って、応援しなくちゃって(笑)」。なお、一橋大でヨット部に入っているが、「“湘南ボーイ”って呼ばれるのは嫌いでね。底抜けに明るくなれないんですよ」[17][18]。 一橋大では、ゼミの同期に鈴木典比古(元国際基督教大学学長。現・国際教養大学学長)が、同級生に三幣利夫(元中東住友商事社長。現・敬愛大学学長)[19]、岡本毅(日本経済団体連合会副会長)がいる。 「青年将校」「小和田雅子」「競争原理」外務省では、1990年の湾岸戦争の際に北米1課長として、米軍艦船の寄港を拒む港湾関係、中東への輸送を渋る航空会社と直談判。硬骨漢の外交官で「青年将校」とも呼ばれた[20]。 テレビ討論番組や新聞座談会で一緒に議論することが多く、同じ産経新聞の「正論」メンバーで一橋大の同窓生の吉崎達彦(双日総合研究所チーフエコノミスト)によると、岡本は「とにかく気さくで、一緒にいるだけで楽しくなる」人柄。一橋大の同窓会如水会の講演会で、外務省時代の岡本が講演で出張時のエピソードを披露。皇太子(現・天皇)の「お妃候補」報道が過熱していた頃で、オーストラリアの空港で日本人観光客の女性陣に囲まれた岡本が「はて、俺はそんなに有名人だったかな、と思ったら、彼らのお目当ては自分ではなくて、部下(後輩)の小和田雅子(現・皇后)だった」と“掴みのジョーク”で、聴衆を瞬時に難解な外交の話題に引き込んだ。硬軟併せ持つ岡本について、「発言することではなく、行動することが真骨頂の外交官」で「存在そのものが日本外交の重し」と分析している[21][信頼性要検証]。 なお、岡本は退官後の2002年には、「政治家には介入を許し、お金の遣い方はルーズ、そして特権意識過剰」な外務省について『いまこそ外務省に競争原理を導入せよ』と題して提言した[22]。 年譜
入省同期
著書単著
共著
共編著翻訳
出演
脚注
関連項目
外部リンク
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