寺内 (秋田市)
寺内(てらうち)は秋田県秋田市にある大字である。郵便番号は011-0901となる[3]。また、大字寺内に由来し「寺内」を冠した町名を持つ地区の総称でもある。各町の郵便番号は、寺内油田011-0903、寺内後城011-0906、寺内鵜ノ木011-0938、寺内大小路011-0908、寺内大畑011-0939、寺内神屋敷011-0905、寺内高野011-0937、寺内児桜011-0909、寺内堂ノ沢011-0902、寺内蛭根011-0904、寺内焼山011-0907。大字寺内と各町を合わせた人口は9,458人(2011年4月1日現在、住民基本台帳人口調査による[1])。 本項では、特に明記しない場合は地域総称としての寺内について述べる。 地理秋田市の中心部から北西約5km、寺内山と称される古四王神社の鎮座する山を中心とした地区が寺内地区である。名称は古四王神社と一体となっていた四天王寺の寺内町であったことに由来する。 寺内山を中心とした丘陵は高清水丘陵といい、周辺は秋田城跡や後城遺跡といった遺跡と、古四王神社に代表される多数の神社仏閣、聖霊女子短期大学等の教育機関と高清水公園がある閑静な地区で、寺内山の西側にある護国神社への参道は桜並木となっている。住宅地は主に、高清水丘陵の東側や南側の平坦地に広がっている。また、西の秋田運河と国道7号に挟まれた区域には、工場や倉庫、配送センターなどがある。 元々の大字寺内は現在の寺内地区よりも北や西に大きく広がっていたが、住居表示に関する法律に基づき住居表示が行われた際、新道や区画整理に合わせて広い範囲が大字寺内から離脱し、特に北側1/3ほどは土崎港や将軍野などの他地区になった。残存している小字は、他の寺内地区とまったく接しない飛び地となった字将軍野(陸上自衛隊秋田駐屯地の南半分)、同じく飛び地の字通穴、国道7号の西側にある字後城・字大小路・字神屋敷・字蛭根、八橋・泉・外旭川に接する字三千刈・字イサノの4箇所に分散している。 寺内地区全体としては、東・南は八橋、西は秋田運河を挟んで新屋・向浜、北は土崎港・将軍野と接する。 小字17の小字が設置されていたが、うち9の小字は住居表示実施に伴う区画整理で全域が他地区へ編入され消滅した。
河川湖沼世帯数と人口2016年(平成28年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
歴史寺内は、秋田平野の中央部に位置する高清水丘陵を中心として、南北に広がる地区であった。寺内山にある、秋田県内で最も格式が高いとされた古四王神社は、658年の創建と伝えられる。また、高清水丘陵は歴史上では高清水岡とも呼ばれ、秋田県内で初めて役所(出羽柵)が置かれた場所である。出羽柵から秋田城に改称した後、1050年頃の前九年の役を境に秋田城の名は廃れ、秋田城そのものも廃城になったと見られるが、秋田城跡からは12世紀から13世紀にかけての中世の遺構も発見されており、何らかの形で使用された可能性が高い。寺内後城の後城遺跡は、発掘物から推定される主要な年代が14世紀後半〜16世紀末であり、室町時代から織豊政権時代に至るまでの集落跡の遺跡である。発掘された陶器の産出場所(中国や越前・肥前などの遠方)から、この時代には既に、海の豪族と称され湊城に拠点を構えた湊安東氏の影響があると考えられている。 江戸時代になり湊城が廃されると、佐竹義宣が久保田藩内の街道整備を行った際、久保田城から土崎湊に至る羽州街道も寺内地区に新道を引くなどして整備された。これ以前に寺内地区を通る道は主に地区の西側を通過していたがこれは街道ではなく、古い街道は戸島・四ツ小屋・牛島一帯(久保田城南方)の雄物川の氾濫原を避けるためか後の羽州街道より大きく迂回しており[4]、寺内付近でも地区の北側を通っていた。羽州街道が整備されたことで、寺内地区の南側から中央部にかけての交通の便が著しく向上した。 明治に入ると、1869年(明治2年)に戊辰戦争に殉じた戦没者が佐竹義堯によって高清水丘陵に祀られた。これは一旦焼失して久保田城址に移ったが、護国神社と改称された翌1940年に現在地となる高清水丘陵の秋田城跡に遷座した。平成2年に即位の礼に反対する過激派により放火され、社殿は全焼したが、2年後の平成4年に再建されている。 年表
字域の変遷以下は明記あるものを除き住居表示実施に伴う変更。
交通鉄道道路
バス施設字イサノ字後城
字大小路字神屋敷
字三千刈
字将軍野字通穴字蛭根
出身者参考文献
脚注
外部リンク |