大越成徳
大越 成徳(おおこし なりのり)は明治時代の日本の外交官。リヨン領事、ロンドン総領事代理、上海総領事、ブラジル駐箚弁理公使兼総領事、アルゼンチン駐箚公使を歴任した。 生涯生い立ち安政2年12月5日(1856年1月12日)、江戸幕府御蔵奉行大越貞五郎の長男として江戸四谷に生まれる[1]。幼名は千太郎[1][2]。幼くして幕府が倒れたため、家は困窮し、路上に家財や絵を売って糊口を凌いだ[1]。 父は学問に理解がなかったが、洋学を修めた母の影響で[1]、旧暦明治4年9月に外務省洋語学所に入学し、フランス語を学んだ[2]。明治5年7月より外務省翻訳掛別席出勤を経て、新暦1873年(明治6年)4月に外務省出仕となり、8月に延遼館滞在中のイタリア王国王族の通弁、1875年(明治8年)7月にはデンマーク使節接遇掛を務めた[2]。 渡欧1876年(明治9年)5月に在英国公使館附書記一等見習に任命され[2]、翌6月に南条文雄・笠原研寿の留学組とともに横浜港より出港、赴任[3]。森有礼公使の下で関税自主権の回復を目指したが[4]、1878年(明治11年)ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでジェボンズに経済学を学び、保護貿易に疑問を抱くようになった[3]。 1879年(明治12年)12月に三等書記生、1881年(明治14年)8月に書記生となる[2]。1882年(明治15年)4月に依願帰国、8月に依願免本官。以後、准判任の外務省御用掛として公信局勤務、朝鮮事務掛に任じられた[2]。 1883年(明治16年)4月、再び書記生として在ロンドン領事館在勤を被命[2]。1885年(明治18年)12月、在リヨン領事としてフランスへ転任[2]、1887年(明治20年)3月にバルセロナ万国博覧会理事官[5]、1888年(明治21年)2月にはパリ万国博覧会事務官[6]に任命された。1889年(明治22年)暇を得て6月に帰国[7]。 1889年(明治22年)『外国貿易拡張論』を著し自由貿易を主張、これが『東京経済雑誌』において評価され[8]、以降度々同誌に寄稿するようになった。 1891年(明治24年)3月に在ロンドン領事[9]、6月に総領事代理を被命[10]。1892年(明治25年)の倫敦日本協会創立に尽力した[1]。 上海転任と帰国1893年(明治26年)11月、在上海領事となり[11]、1894年(明治27年)3月に総領事となった[12]。金玉均暗殺事件では、総理衙門に洪鐘宇の上海共同租界への引き渡しを要求した。 1894年(明治27年)8月1日に日清戦争開戦の報を受け、11日上海より退去[13]。11月に上海在勤を解かれ[14]、12月に横浜税関長に任じられた[15]。 南米勤務1899年(明治32年)3月にブラジル駐箚弁理公使兼総領事に任命の上[16]、リオ・デ・ジャネイロ在勤を命じられ[17]、7月にペトロポリスに着任[3]、1902年(明治35年)4月にはアルゼンチン駐箚を兼任[18]。 当時政府はブラジル移民の可能性を模索しており、大越も調査を行ったが、コーヒー価格の暴落による恐慌を目の当たりにし、反対の報告を行った[19]。ブラジルでは日本拉丁協会を設立するなど広い交友関係を築き[1]、妻(Carmen Aguirre、スペイン・イギリス混血)によれば、南米駐在中が生涯で最も幸福だったという[20]。 1903年(明治36年)12月11日に依願免本官並兼官[21]。1904年(明治37年)11月には日露戦争の外債募集のため、末松謙澄に従いロンドンへ渡った[22]。 晩年は麻布区広尾町75番地に隠居したが、健康を害し、1923年(大正12年)7月2日午前10時死去した[23]。 栄典位階
勲章
外国勲章佩用允許
著書
家族
脚注
参考文献
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