松村貞雄松村 貞雄(まつむら さだお、1868年10月21日〈慶應4年9月6日〉 - 1923年〈大正12年〉2月21日)は日本の外交官。ウラジオストック総領事、サンパウロ総領事等を歴任。 略歴1868年10月21日(慶應4年9月6日)、土佐国土佐郡鴨部村(現・高知県高知市)に土佐藩士の二男として生まれる。1886年(明治19年)に獨逸学協会学校に入り、ドイツ語とラテン語を修業し、1891年(明治24年)に和仏法律学校(現・法政大学)に入学し、1894年(明治27年)に卒業する。1897年(明治30年)に外交官及領事官試験に合格、外務省に入省し、上海領事官補として勤務する。北清事変のときには上海、日露戦争のときにはヨーロッパにあって活躍し、漢口総領事時代には第一革命がおこり、居留地の保護及び列国領事等との折衝にその手腕を振るう。1913年(大正2年)にブラジル公使館一等書記官兼初代サンパウロ総領事に任じられ、1919年(大正8年)までの約6年間ブラジルに在勤する。 シベリア出兵の際には、軍司令官付外交官として樺太に駐在し、撤兵時にはウラジオストック総領事に任じられる。シベリアからの撤兵後、1923年(大正12年)2月21日、シベリア出兵での外交折衝による過労が原因で没する。 人物サンパウロ総領事として、土地の購入・開拓など植民地の発展に大きく貢献し、古い移民達(ブラジルではマカコベーリョ「老猿」といわれている)は異口同音に『松村総領事はえらかった。歴代の総領事中松村さん以上の人物はいませんな』とその徳を称えている。 栄典
脚注参考
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