北浜
北浜(きたはま)は、大阪府大阪市中央区の町名。現行行政地名は北浜一丁目から北浜四丁目。 概要・地理船場の北端の町で、土佐堀通(外北浜通)と内北浜通の両側町。南は今橋、東は東横堀川葭屋橋を挟んで北浜東、北は土佐堀川難波橋・栴檀木橋・淀屋橋を挟んで北区中之島、西は西横堀川跡の阪神高速1号環状線北行きを挟んで西区江戸堀とそれぞれ接する。 東側の1丁目と2丁目は江戸時代から同じ町名で、北浜駅に近いため一般的に北浜と言えばこの付近を指すことが多い。大阪取引所を中心とした大阪随一の金融街となっており、東京都中央区の東京証券取引所が所在する日本橋兜町が「シマ」と呼ばれるのに対し、北浜は「ハマ」と呼称される。 御堂筋を挟んで東西に位置する3丁目と4丁目はかつて別の町名だったこともあり、淀屋橋駅に近いため、北浜ではなく淀屋橋と呼ばれることの方が多い。旧町名の大川町(下記参照)は、江戸時代初期には淀屋常安が居を構えており、その邸宅前から自費で土佐堀川に架橋した橋が淀屋橋である。20世紀以降の大川町一帯は、三井住友銀行大阪本店ビルや住友ビルディングを中心に住友グループ(旧住友財閥)企業の本社・本店オフィスが数多く立地していることから、俗に「住友村」とも呼ばれる。 なお、東隣の北浜東はかつて京橋という町名だったことに加え、船場ではなく上町に位置しているため、北浜には含まれない。 河川
歴史北浜は近世を通じて現在の1丁目と2丁目のみで、現在の3丁目と4丁目のうち心斎橋筋以東は過書町、同以西は土佐堀通沿いが大川町、内北浜通沿いが梶木町、西横堀川沿いは七郎右衛門町1丁目という町名だった。1872年(明治5年)に過書町と梶木町を編入して1 - 5丁目に改編、七郎右衛門町1丁目を横堀1丁目に改称。1989年(平成元年)に大川町と横堀1丁目の北部を編入して現行の1 - 4丁目に改編された。 1743年(寛保3年)に金・銀・銭の取引相場を決める金相場会所が高麗橋より北浜へ移転。また、1777年(安永6年)には長崎向けの輸出商品を売買する俵物会所が備後町から北浜へ移転された。明治以降は金相場会所跡地に大阪株式取引所(現・大阪取引所)が設置され、有力な両替商らによって銀行などが設立された。 1845年(弘化2年)に大村益次郎、福澤諭吉らを輩出した緒方洪庵が開設の適塾が津村東之町(現:瓦町3丁目)より過書町へ移転。1875年(明治8年)には蟹島新地とも呼ばれる北浜東端の築地において、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが会談して日本の三権分立と漸次立憲が決定づけられた大阪会議が開かれるなど、北浜は日本の近代化に大きな影響を与えた所でもある。 1962年(昭和37年)に埋め立てられた西横堀川には西国橋・船町橋が架橋されていた。 地名の由来船場の北の浜(大阪では河岸(かし)を指す)による。 世帯数と人口2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
事業所2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[10]。
主な施設
かつて存在した施設交通鉄道
道路※ 北浜出口(阪神高速1号環状線)は、所在地が中之島よりさらに北の西天満になり、加えて、難波橋が北行き一方通行であるため、北浜へアクセスしにくいので注意。 その他日本郵便脚注
関連項目外部リンク
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