下手計
下手計(しもてばか)は、埼玉県深谷市にある大字である。市では八基地区で分類されている。郵便番号は366-0002[2]。面積は1636467.69平方メートル[4]。2015年時点の国勢調査で人口は1,120人、世帯数は378世帯である[4]。旧榛沢郡下手計村。富岡製糸場の初代場長、尾高惇忠の生誕地として知られる。 地理埼玉県の北部地域で[5]、深谷市の北部に位置する[6]。 区域の東側を新戒、南側を大塚、西側を上手計や血洗島、北側を横瀬や中瀬が隣接する。また、南側では向ケ島や矢島とも隣接する。 全域が利根川と小山川に挟まれた後背地沿いの沖積平野部に属していて起伏は無く平坦である。地内は稲作より畑が中心の農地が広がり、農業的土地利用の比重が高い地域である。 地区の中央を清水川やその支流の準用河川深谷横瀬川[7]が蛇行しながら流れる。また、地区の南端では小山川支流の七間堀が流れる。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国榛沢郡岡部領に属する下手計村で、古くは中世末期からと思われる大寄郷の藤田荘に属したと云う[8]。さらに古くは南北朝期より見出せる下手墓村であった[9]。1363年(貞治2年)5月28日の「鎌倉公方足利基氏御判御教書」や、同年6月2日の「鎌倉公方足利基氏御教書案」に下手墓村の記載が見出せる[9]。なお、下手計村は下手斗村とも記される[9]。中世期では安部氏や岩松氏などが支配していた[10] 村高は正保年間の『武蔵田園簿』によると667石余(全て畑)、『元禄郷帳』によると667石余、『天保郷帳』によると1,211石余であった。化政期の戸数は175軒で、村の規模は東西12町余、南北15町であった[9]。村の物産は幕末から明治期にかけては生藍で、その後は主に養蚕関連業で蚕卵紙や生糸など生産していた。当地で生産された生太織は深谷駅より出荷していた[11][9]。
小字
地名の由来昔この地域で合戦があり、戦場で負傷した源義家の家臣の片手を切り落として埋葬した伝承の場所から「手墓(てばか)」となったと云う。 手墓から手計に変化した時期は江戸期頃からという[16][17]。隣村の血洗島の地名の由来の説のひとつに、その切り落とした片手を洗った場所から、血洗島という名前になったというものもある。 また、アイヌ語で崖を意味する「ハケ」が「はか」に転じたという、アイヌ語由来の説もある。 世帯数と人口2021年(令和3年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区
交通地区内に鉄道は敷設されていない。 バス路線
道路地域名所→詳細は「渋沢栄一記念館」を参照
→「尾高惇忠 (実業家)」も参照
寺社尾高惇忠生家の東方にある墓地に尾高惇忠の墓所がある。
その他施設等
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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