男衾郡(おぶすまぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。東武東上線男衾駅などにその名をとどめる。
郡域
現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
歴史
古代
古墳群が多い北武蔵でも特に多く、野原古墳群(「踊る埴輪」が出土)、塩古墳群、鹿島古墳群など。延喜式神名帳に3社(小被、出雲乃伊波比、稲乃賣神社)記されているなど、人口も多かったとみられる。ただし、中世以降に郡域の変更が重なったため、明治期と古代では範囲も異なる。
近代以降の沿革
知行
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村数
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村名
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幕府領
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幕府領
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14村
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折原村、●赤浜村、木呂子村、●白岩村、木持村、内宿村、甘粕村、関山村、保田原村、露梨子村、小園村、富田村、牟礼村、靭負村
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旗本領
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9村
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●今市村、秋山村、三品村、西ノ入村、木部村、勝呂村、●野原村、小江川村、塩村
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幕府領・旗本領
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7村
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千代村、柴村、板井村、●本田村、●畠山村、鷹巣村、須賀広村
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幕府領・藩領
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幕府領・旗本領・武蔵忍藩
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1村
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西古里村
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その他
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寺社領
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2村
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立原村、藤田村
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- 慶応4年
- 6月17日(1868年8月5日) – 関東在方掛の旧岩鼻陣屋に岩鼻県が設置され、木村支配所管轄の幕府領の一部(靭負村・野原村・須賀広村を除く全域)を引き続き管轄するとともに、下記5村を除く旗本領、寺社領のうち立原村を管轄。
- 6月19日(1868年8月7日) - 忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任。幕府領・旗本領のうち靭負村・野原村・小江川村・塩村・須賀広村、寺社領のうち藤田村を管轄。
- 明治2年
- 明治4年
- 1873年(明治6年)
- 6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併して熊谷県となる。
- 白岩村・木持村・内宿村・甘粕村・関山村が合併して鉢形村となる。(29村)
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2期)に改称。当郡域は埼玉県の管轄となる。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により、行政区画としての男衾郡が発足。大里郡熊谷宿に設置された大里郡役所が管轄。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の村が発足。(5村)
- 男衾村 ← 富田村、牟礼村、今市村、赤浜村、西古里村、鷹巣村(現寄居町)
- 折原村 ← 折原村、立原村、三品村、秋山村、西ノ入村(現寄居町)
- 鉢形村 ← 鉢形村、保田原村、小園村、露梨子村(現寄居町)
- 小原村 ← 小江川村、野原村、須賀広村、千代村、柴村、板井村、塩村(現熊谷市)
- 本畠村 ← 本田村、畠山村(現深谷市)
- 木部村・木呂子村・勝呂村・靱負村が比企郡竹沢村の一部となる。
- 藤田村が榛沢郡寄居町の一部となる。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 大里郡・幡羅郡・榛沢郡・男衾郡の区域をもって、改めて大里郡が発足。同日男衾郡廃止。
行政
- 大里・男衾・幡羅・榛沢郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
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明治11年(1879年)3月17日 |
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明治29年(1896年)3月31日 |
大里郡・幡羅郡・榛沢郡との合併により男衾郡廃止
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参考文献
外部リンク
関連項目