ヤマニシ
歴史1920年(大正9年)に山西造船鉄工所として創業し、1973年(昭和48年)に現在の本社工場の操業を開始した[1]。創業から昭和40年代までは漁船を多数建造しており、1960年代には「北転船のヤマニシ」[5]としてオホーツク海、ベーリング海での操業に耐えうる堅牢な設計を得意としていた。漁業実習船・調査船以外の遠洋漁船は遠洋漁業の衰退など需要の変化により、1994年竣工の第一榮久丸以降は建造実績がない[6]。 1975年から東南アジア向けの貨物船の建造を開始し、1980年代からはフェリーおよびRO-RO船の建造を開始した。2003年には、建造が困難で他の造船所が引き受けなかった19,000DWT型のばら積み貨物船を船主の要望により受注して20隻以上のシリーズとなり、船型を拡大した24,000DWT型も建造している。同様に他の造船所の船台に空きがなかったため、船主の要望により受注したLPG船もシリーズ化するなど、外航船にも進出している[6]。 1977年9月に会社更生法を申請し、1992年に会社更生手続が結了した[7]。1993年に社名を現在のヤマニシに変更した。 東日本大震災による被害2011年3月11日に発生した東日本大震災に被災し、同日15時45分頃に到達した津波により工場設備は壊滅状態となった。到達した津波の高さは5メートルで、2階までの浸水に従業員は避難して全員無事だったものの、創業以来の図面や顧客情報などは全て流失した。また、建造中だった2隻のばら積み貨物船が石巻港内へ流出し、損傷した。3号船台で建造中の3月19日に進水予定だったTULIPANは、定川河口の宮城県道247号石巻工業港矢本線の道路橋に衝突して落橋させた後、東水路で擱座した。艤装岸壁で作業中だったSIDER JOYは、対岸の防潮堤に乗り上げた。TULIPANには81名、SIDER JOYには31名が乗船したままになっており、3月12日に海上保安庁と海上自衛隊のヘリコプターにより全員が救助された[8][6]。SIDER JOYは後に修理されて船主に引き渡されたが、損傷の大きかったTULIPANは解体された[9]。 新造船事業と修繕事業の再建には約170億円が必要となり、七十七銀行の協力と企業再生支援機構の支援の下、事業再生が行われた[9]。
受注中の建造契約に対応するため、2011年7月にはカナサシ重工と業務提携を結び、震災前に受注したばら積み貨物船2隻をカナサシ重工の設備を借り受けて建造した[3]。その間、本社工場の再建を進めて2012年8月に新造船部門を再開すると、同年11月21日に震災後初となる島根県漁業実習船神海丸の進水式を実施し、2013年2月22日には震災後初めて受注した南日本汽船の貨物船うりずんの進水式を実施した[9]。更に修繕事業の再建のため、東日本大震災事業者再生支援機構による出資や、三菱商事復興支援財団による融資を受け、修理用のドライドックと修繕工場の復旧と改修を実施した。2014年1月にはドライドックが復旧し、修繕部門の受け入れを再開したことで、概ね震災前の設備へ回復した[10]。 しかしその後は受注が伸び悩み、災害の復旧費用や減価償却費が重荷になり、財務状況が悪化した[11]。2019年3月期の売り上げは約111億7600万円であり、ピークであった2010年3月期の6割にも満たなかった[12]。2020年1月31日に東京地方裁判所へ2度目となる会社更生法適用を申請。同日付で監督命令、調査命令並びに弁済禁止の保全処分を受けた[7][13]。同年2月17日に東京地方裁判所から会社更生手続開始決定を受けた[14]。 建造設備石巻港西側に敷地面積245,108平方メートルの本社工場を有している。1号船台と2号船台は建造修理兼用、3号船台は建造用で、その他、修理用のドライドック、艤装岸壁、修繕岸壁、各種工場がある。 建造船一覧
脚注
外部リンク |