ブリスベン
ブリスベン(英: Brisbane)は、オーストラリア連邦クイーンズランド州南東部(サウス・イースト・クイーンズランド地域)に位置する州都。 シドニー、メルボルンに次ぐオーストラリア第三の都市であり、オセアニア有数の世界都市。オーストラリア英語での発音は [ˈbrɪzbən](ブリズベン)であるが[1]、ここでは日本の外務省の表記にならった。 2032年ブリスベンオリンピック・パラリンピックの開催都市として注目されている[2][3]。 歴史→詳細は「ブリスベンの歴史」を参照
現在ブリスベンとして知られている地域はヨーロッパ人が来るまでトレス海峡から移ってきた原住民であるアボリジニーのターバル(Turrbal) と呼ばれる部族の人々が暮らしていた。彼らはこの地を "Mian-jin"(棘のような形をした土地)と呼んでいた。 1823年、ジョン・オクスレイ率いる探検隊がモートン湾とブリスベン川周辺の航海を行った。ブリスベン川では現在の市中心部から約20km上流にある現在のグーナ地区(Goodna)にまで川を溯っている。 1824年、ニューサウスウェールズ植民地政府は現在のレッドクリフ地区(Redcliffe)のモートン湾に面する海岸に流刑植民地を設立。しかしながらこの流刑地は一年で放棄され、安定した水の供給を求めて南に位置するブリスベン川の半島(現在の市中心部)に流刑地を移動した。 1838年、一般のヨーロッパ人の入植が始まる。 1840年、ロバート・ディクソンがブリスベン街の第一次開発プランを開始する。 1859年6月、クイーンズランド州はNSW州より分割した植民地であると宣言し、ブリスベンを州都に決める。しかしながら正式に市として承認されるのは1902年であった。 1925年には20以上の地方自治体、行政区が合併し大ブリスベン市を形成し、ブリスベン市役所が合併した地区の行政を行う。 第二次世界大戦中にはブリスベンにはアメリカ軍が駐屯し連合国軍の太平洋南西部での活動の中心的な役割を担い、AMPビルディング(現在のマッカーサーセントラル)には連合国太平洋司令官 ダグラス・マッカーサー により連合国軍太平洋司令部が置かれた。当時およそ100万人のアメリカ軍部隊がオーストラリアに駐屯し、太平洋南西部での行動の拠点となった。 クイーンズランド大学のセントルシアキャンパスも最後の3年間は兵舎になり、サウスブリスベンのセント・ローレンスカレッジも町の見晴らしが良いことで兵舎になった。その間Greenslopesで授業があった。ニューステッド・ハウスも戦時中にアメリカ軍によって使用されていた。1942年にオーストラリア兵とアメリカ兵が市内で争ったブリスベン騒乱事件が発生している(Battle of Brisbane)。 1974年には市内を流れるブリスベン川が氾濫を起こし川に隣接する地区は甚大な被害を受けた。ブリスベン川は1864年、1893年、1897年にも氾濫を起こしており、74年の氾濫後、市は対策を施しそれ以来現在まで氾濫は起きていない。これらの洪水により被害を受けたブリスベンシティー植物園を、マウント・クーサの麓に新たに植物園を建設した。 1982年にはコモンウェルス・ゲームズ(イギリス連邦競技大会)が、1988年には国際博覧会(World Expo 88)が開催され成功を収めた。 2011年と2022年には再び大規模な洪水が起こり、郊外に甚大な被害をもたらした。 現在国内外から移民を受け入れ、オーストラリアで最も人口増加率の高い都市の一つであり急速に発展している。 歴史上の著名なブリスベン出身者
地理ブリスベンはオーストラリア、クイーンズランド州の南東部に位置する。市街地はブリスベン川の半島部に位置し、東部のサバーブ(郊外)はモートン湾沿いにまで広がる。また、ブリスベン大都市圏はグレートディバイディング山脈の東部、モートン湾沿岸の氾濫原に広がる平野にある。この地域には北部のカブルチャーから南部のビーンレー、南西部のイプスウィッチなどが含まれる。 ブリスベンには丘が多く[4]、中央業務地区を含む都市域は標高約300mのクーサ山や、より低いエノゲラ・ヒルのような山を含むタイラー山地の裾野に位置している。 またブリスベン周辺にはマウント・グラベットやトゥーイーズ山付近などの、標高約170mのピートリー山やハイゲート・ヒル、ステファンズ山、ホワイト・ヒルなど、市内に散在している。 市街地には多くの小川があり、洪水の危険性を増大させている。ブリスベン市は植民地化以降の1893年、1974年、2011年、2022年の4度の大洪水を経験している。特に記録的な洪水となった1974年のブリスベン洪水はサイクロン・ワンダが原因の一つとなっている。1974年のオーストラリアの日(1974年1月26日-27日)の前の約3週間大雨が続き[5]、この結果、オックスレイ、ブリンバ、ロックレア、クーパルー、トゥーオング、ニューファームなどのブリスベンの多くのサバーブに洪水による被害を出した。またブリスベン・シティー植物園は水没し、この時にブリスベン川のシティー側にマングローブの新しい群落が形成された[6]。2011年のブリスベン洪水と2022年のブリスベン洪水では、水位は1974年に達しなかったが、郊外を中心に甚大な被害がもたらされた。 都市構造ブリスベン中央業務地区(CBD)はブリスベン川の半島部に位置する。中心業務地区は約2.2km2である。 中心街の道路名はハノーヴァー朝の王室の名前に由来する。ビクトリア女王に敬意を表し名付けられたクイーン・ストリートは、ブリスベンの伝統的な中心街となっている。またクイーン・ストリートには、歩行者専用道路となっているクイーン・ストリート・モールがあり、ショッピング街となっている。クイーン・ストリートに平行する道路名は女性王族の名前(アデレード、アリス、アン、シャーロット、エリザベス、マーガレット、メアリー)にちなみ、またこれらに垂直に並ぶ通りは男性王族の名前(アルバート、エドワード、ジョージ、ウィリアム)に由来している。 シティには1820年代に建設された歴史的な建築物が残っている。ウィッカム公園のオールド・ウィンドミルは1824年に受刑者により建てられ[7][8]、ブリスベンに残っている建築物では最も古い物である。オールド・ウィンドミルは穀物をひくために使われ、受刑者の刑罰として手動で製粉していた。また、1934年4月に南半球で最初にテレビの試験放送を行った場所でもある。この実験的なテレビ報道は世界第二次大戦まで続けられた[7]。 1828年に受刑者により建てられたウィリアム・ストリートのコミッサリー・ストアは、穀物倉庫として一部が使われており、移民者のホステルとしても使用され、また記録保管庫としても使われた。カンガルー・ポイント・クリフの近くのブリスベン・タフおよびアルビオン・パーク・レースコースの砂岩で建てられ、現在はブリスベン王立歴史協会の本部となっている。博物館があるほか、小規模の会合、式典などに貸し出されることがある[9][10][11]。 シティの人口密度は1平方キロメートルあたり379.4人であり、これはオーストラリアでは高い方でありシドニーの人口密度に匹敵する。しかしながら多くの西洋の都市と同じように郊外の庭付住宅の需要は根強く、ブリスベンの人口は周辺域へと広がりつつある。 初期の法律により居住ブロックの最小規模が定められ、その結果、ブリスベンに建築されたテラスハウスは少数にとどまることとなった。アパートメントのような集合住宅はブリスベンでは比較的新しく、1970年以前はシティ近接のサバーブに少数が建設されただけである。近年ではシティおよびシティ近郊の人口密度はアパートメントの増加により高くなっており、シドニーやメルボルンとの差は縮まった[12]。中心業務地区の人口は2004年6月から2009年6月の5年間で約2倍となり[13]、都心回帰の傾向がみられる。 1950年以前の住居はクイーンズランダーという様式で建てられていた。トタンの切妻屋根と大きなベランダが外観の特徴で、高温多湿の気候に対応した高床式の木造住宅である。現在では珍しくなっているが、郊外で新築物件の供給が行われている。これらクイーンズランダー様式の家は杭('stilt'(竹馬)とも呼ばれる)により高く持ち上げられる。この杭は元々は木材が使用されていたが、近年は鉄筋やコンクリートが使用されることが多い。サウス・イースト・クイーンズランド地域の材木の値段が比較的安いのは、近年まで多くの住居が、ブロックや石材よりもむしろ、木材で建築されることが多かったためである。 ブリスベン市庁舎は高さ91mの時計塔を備えており、長年に渡り市内で最も高い建築物だった。現在、ブリスベンには高さ100m以上の建築物は70棟以上あり増加している。最も高いのは2019年に完成したブリズベンスカイタワー(270m)である。 気候ブリスベンはケッペンの気候区分の温暖湿潤気候Cfaに属し、夏は湿度が高く暑くなり、冬は乾燥し温暖な気候である[14]。11月から3月までは雷雨がよくあり、また時折、激しい雨、風が伴うことがある。 ブリスベンで記録された最高気温は1940年1月26日の43.2℃である。また、2007年7月19日にはブリスベン空港で記録上初めて氷点下になり、-0.1℃を記録した[15]。2009年8月24日には、冬としては最も気温の高い35.4℃を記録している。最も降水のあった日は1887年1月21日であり、465mmを記録し、この記録はオーストラリアの州都においても最大の記録である。 ブリスベンおよび周辺地域では、2001年から2008年までの間、この100年間で最も記録的な干ばつがあり、2007年8月10日にはダム貯水量が16.9%にまで下がった。居住者は法律により、レベル6という高い水の供給制限を受け、庭や屋外での水の使用が制限された。一人あたりの水の使用量は1日あたり140リットル以下に制限され、これは世界の他の欧米諸都市の中で最も低いものであった[16]。2008年のはじめにブリスベンの周辺ダムの貯水量は98%までに回復している[17]。水の供給制限は、一日、一人あたり200リットルへと変更されたが、需要量は160リットルを上回ることはまれである。 ブリスベンにおいては砂嵐はかなり珍しいが、2009年9月23日に起こった砂嵐においては、他のオーストラリア東部の都市と同様にブリスベンにおいても記録された[18][19]。 ブリスベンはまたサイクロンの影響を受ける地域でもあるが、ブリスベンにサイクロンが直接上陸することは稀である。2009年3月に熱帯性サイクロンのハーミッシュがブリスベン付近を通過し、ブリスベンの北部の約350kmに渡り傷跡を残したが[20]、このときの最も大きな被害はモートン湾で起きた、座礁した船によって引き起こされた燃料漏れ事故である[21]。
行政
他のオーストラリアの州都とは違い、ブリスベン大都市圏の大部分はブリスベン市議会のもとで統治されている。1925年にブリスベン市議会が創設されて以来、ブリスベンの都市域は市の境界を超え広がり続けた[25]。1925年以前はブリスベン地方自治議会(Brisbane City Council)により、現在のブリスベンのインナーサバーブが統治されていた。 ブリスベン市は人口および予算の面でオーストラリアで最も大きな自治体である[23]。1925年に20の小さな自治体が合併し、現在の市の面積は1376平方キロメートルとなった。市の2010年度年間予算は約3億豪ドルであり、資産は約216億豪ドルである[26]。 ブリスベン大都市圏は南部のローガン市、北のモートンベイ市、南西のイプスウィッチ市、東のレッドランド市、シーニック・リム市などを含む。 2020年10月現在、ブリスベン市長はエイドリアン・シュリナー。 経済ブリスベンの経済は主に第二次、第三次産業の発展が顕著に見られる。 第二次産業では精油、船内荷役、製紙、金属加工術、クイーンズランド鉄道の鉄道工場などがあり、これらはブリスベン川の下流域や新しく建設された都市周辺部の工業地帯に建設される傾向がある。第三次産業では、一般的に市中心部のCBD(Central Business District=中心商業地区)に建設された高層商業ビルや、近年作られた近接郊外の商業団地でIT、金融サービス、高等教育、公共機関などが発展している。観光業はブリスベンへの観光だけではなく、クイーンズランド州の玄関口としても機能しブリスベンの重要な産業である。 伝統的にブリスベンは、シドニーやメルボルンに本拠地を構える大企業の支社・支店が集中する支店経済都市のような性質を持っている。多様化を図るために1990年代後半から2000年代前半に州政府は、“スマートステイト”キャンペーンを展開しクイーンズランド(特にブリスベン)にあるの幾つかの生命工学(バイオテクノロジー)とブリスベンの大学のリサーチ施設に投資した。 人口構成
イプスウィッチ、モートンベイ、ローガン、レッドランドなどを含むブリスベン大都市圏は人口統計学的に一つのコナベーションとされる。2006年の国勢調査ではブリスベン大都市圏には1,763,131人が居住していることが記録された[28]。ブリスベン大都市圏はオーストラリアで3番目に大きい都市圏である[28]。 オーストラリアの首都圏においては最も高い人口増加率を示し、2001年から2006年の人口増加率は年間平均2.2%であった[30]。年齢の中央値は35歳である[31]。 2006年の調査ではブリスベンの人口のうちオーストラリア先住民は1.7%、21.7%は海外生まれであり、国外生まれでは、ニュージーランド、南アフリカ、イギリスで生まれた者が多かった[31]。また、約16.1%の家庭が英語以外の言語を話し、うち北京語が1.1%、ベトナム語が0.9%、広東語が0.9%、イタリア語が0.6%、サモア語が0.5%である[31]。 ブリスベン市の人口構成2006年の国勢調査ではブリスベン市の人口は956,130人であった。このうちオーストラリア市民権所持者は806,379人(84.3%、オーストラリア平均86.1%)、海外生まれは229,173人(24%、同23.8%)、オーストラリア先住民は12,938人(1.4%、同2.3%)であった[32]。また海外生まれのうち、英語圏出身者は97,168人(10.2%)、英語圏以外の出身者は132,005人(13.8%)であった。 1987年までブリスベン南部の地区のワコール(Wacol)にワコール移民局があったため、ブリスベン南部に海外生まれ人口が多い地域が集中した[33]。2001年から2006年の間にブリスベン市の人口は89,801人増加し、うち海外生まれの人口は31,431人であり、かつ英語圏以外の出身者が21,984人を占める[32]。 ブリスベン南部の地区であるサニーバンクは東アジア出身者の多いサバーブの一つであり、41.5%が海外生まれである[32][34]。英語圏出身者別(7.6%)ではニュージーランド(3.5%)、イギリス(3.4%)、英語圏以外(33.9%)では中国本土(8.6%)、台湾(7.3%)、香港(2.3%)であった[32]。ブリスベンはオーストラリア国内で最も台湾系移民が多い地域である。中華街のあるフォーティテュード・ヴァリーにおける中国本土出身者の割合は1.6%であり、ブリスベンにおける中国本土出身者(1.0%)に比べるとわずかに多いが、サニーバンクに比べると少ない[32]。サニーバンクには中国系レストランも多くあり[34]、そのためサニーバンクとその周辺は‘本当の中華街’、‘台湾街’などと言われることがある。また、ベトナム人は南部のイナラ(14.3%/海外出身者33.8%)やダラ(15.2%/同40.8%)周辺に多い[32]。 インナーサバーブ南部は、ギリシア人やイタリア人を中心に南ヨーロッパ出身者が多い。シティー周辺にはセルビア人、ボスニア人、クロアチア人、インド人、パキスタン人、南アフリカ人、フィジー人などが多い。 文化観光シティーの旅行者に人気があるのは、2000年から2001年にかけ改修したローマストリート公園、(植民地時代からある植物園である)ブリスベンシティー植物園、1988年世界万博の開催地であったサウス・ブリスベンにあるサウスバンク公園などである。旅行者も市民も同様に、美しいブーゲンビリアの並ぶリバーサイドウオークウェイを季節を問わず歩き、音楽やアートフェスティバルに集う。 主要なショッピングエリアはCBD(シティー)にあるクイーン・ストリート・モールや、フォーティテュード・ヴァレーにある中華街などがあげられる。ブリスベン川沿いにはカンガルーポイントではロッククライミングやカヤッキングなどが楽しめる。また、マウント・クーサにはシティーを見渡せるサミット展望台、マウント・クーサ植物園、セント・トーマス・ブリスベン・プラネタリウムがある。 世界で最も大きく古いコアラの保護区であるローンパイン・コアラ・サンクチュアリもブリスベン市内の観光地として人気がある。 キャッスルメイン・パーキンスXXXXビール のミルトンの醸造所は月曜日から金曜日、ツアーがある。 歴史的建造物ブリスベンには多くの歴史的、近代的建造物が建築されている。
博物館・美術館
メディア7つのテレビジョン放送局サービス: スポーツ2032年にブリスベンオリンピック・パラリンピックが開催される予定である。 ブリスベンに本拠を置くスポーツチーム:
教育単科及び総合大学多くの高等教育施設がブリスベン、または隣接地域内にキャンパスを置いている:
参照:オーストラリアの大学一覧
交通→詳細は「ブリスベンの交通」を参照
ブリスベンは市内の交通網がよく発展しているとともに、州内各地、オーストラリア各州、海外などへの交通の拠点ともなっている。しかし、公共交通機関は住民の移動手段としてはまだ不十分であり、個人所有の車による移動が大部分を占める[36]。 ブリスベン市内にはバス、鉄道およびフェリーの公共交通機関がある。バスは公営および民営の会社により運営されており、また、電車やフェリーはブリスベン市により運営されている。ブリスベン中央商業地区はセントラル駅、ローマ・ストリート駅、クイーン・ストリート・バス駅などがハブ駅となり多くの公共交通機関の中心地となっている。ブリスベンのシティーキャットは上流のクイーンズランド大学から下流のアポロ・ロードまでを結ぶフェリーサービスであり、住人はもとより観光客にもよく使われる交通機関である。また、より近距離のフェリーサービスであるシティーフェリーも運航されている。 シティートレインは特にシティーの西、北、東方面をカバーする鉄道路線であり、10路線が運営されている。エアトレインはシティとブリスベン空港をつなぐ民営の路線であり、官民共同で運営されている。2000年以降、バスの運行を円滑にするために、サウスイーストバスウェイやノーザンバスウェイのようなバス専用道路を発展させてきた。このバス専用道路のため近年ではバスが渋滞に巻き込まれることは少なくなった。トランスリンクが発行するチケットやゴーカードは異なる公共交通機関の間で相互利用が可能である。 クイーンズランド鉄道(QR)の一機関であるトラベルトレインは、州内各方面への長距離列車を運行している。レールコープの機関であるカントリーリンクは、シドニーへの長距離列車を運行している。これらはローマストリート駅に発着する。 ブリスベン川は、道路交通網の妨げとなっている。その結果、ブリスベン川を横切る10箇所の橋が作られた。これはブリスベン市内の公共交通網の必要性を強めた。また、3カ所の鉄道橋および2カ所の歩行者専用橋がある。また、グリーン・ブリッジという別名でも知られるエレナー・ショネル・ブリッジは、クイーンズランド大学とダットン公園を結ぶバス、歩行者および自転車専用の橋である。トランスアペックス計画により、複数のトンネルや橋の建設が計画されている。 ブリスベン市議会によりシティーサイクルと呼ばれる自転車の貸し出しシステムが整備されており、2011年までに市内に150カ所のシティーサイクル駅が整備され、最大2000台の自転車が市民の足として提供される予定である[37]。 ブリスベン川沿いには歩行者およびサイクリスト向けに、リバーウォークとよばれる歩道が整備されている[38]。 ブリスベンにはいくつかのフリーウェイが整備されている。パシフィック・モータウェイは南部のゴールドコーストとシティーを結ぶ路線である。また、イプスウィッチ・モーターウェイはブリスベン西部のイプスウィッチを結ぶ路線であり、ウェスタン・フリーウェイおよびセンテナリ・フリーウェイがブリスベン市内からイプスウィッチ・モーターウェイへと接続している。一方、北部へはブルース・ハイウェイが主要道路となっている。ブルース・ハイウェイはケアンズまで約1700kmあるフリーウェイであり、大部分がクイーンズランド州の沿岸地帯を通っている。 ゲートウェイ・モーターウェイはブリスベン市街地を避け、ゴールドコーストからサー・レオ・ヒールシャー・ブリッジを経由してサンシャイン・コーストへと抜けるルートであり、有料道路である。ブリスベン港モータウェイはゲートウェイ・モーターウェイとブリスベン港を結ぶ道路であり、またインナーシティ・バイパスとリバーサイド高速道路は、市内の混雑を防ぐための環状線として機能している[39]。 ブリスベンの急激な人口増加はサウス・イースト・クイーンズランドの交通システムの懸念材料となっている。州政府およびブリスベン市議会はサウス・イースト・クイーンズランド・インフラストラクチャー計画のような交通網整備プロジェクトに資金を供給しながら、インフラストラクチャー計画を発展させてきた。特にトンネルやバイパス、公共交通機関の改善などをはじめ、既存の道路網の改善および拡張に力を注いできた。 ブリスベン空港はブリスベンの主要な空港であり、オーストラリア国内ではシドニー空港、メルボルン空港に次ぎ3番目に利用者の多い空港である。街の中心地の北東部に位置しており、市内から空港へはエアトレインと呼ばれる鉄道で接続されている。またブリスベン南部のサバーブであるアーチャーフィールドに、アーチャーフィールド空港がありゼネラル・アビエーション空港として機能している。他に小規模の空港がカブルチャーとレッドクリフに存在する。 ブリスベン近郊
姉妹都市
ブリスベンの姉妹都市の公式な一覧:List of Sister Cities(英語) 出典
関連項目
外部リンク公式 日本政府 観光 |