バロン吉元
バロン 吉元(バロン よしもと、1940年<昭和15年>11月11日 -)は、日本の漫画家、画家。本名、吉元 正(よしもとただし)[1]。 1960〜1970年代にかけて巻き起こった劇画ブームの全盛期を築いた漫画家のひとり。 代表作に『柔俠伝』シリーズ、『どん亀野郎』、『黒い鷲』、『賭博師たち』など。 満洲奉天市(現・中華人民共和国瀋陽市)生まれ、鹿児島県指宿市育ち。 鹿児島県立指宿高等学校卒業後、武蔵野美術大学西洋画科へ入学。柔道は黒帯を保有[2]。 公益社団法人日本漫画家協会理事。2005年から2012年までは大阪芸術大学キャラクター造形学科にて教授を務めた[3]。 来歴生い立ち1940年(昭和15年)11月11日、満州国奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に、日満商事で働く父・慶治と母・エミの間に生まれる。転勤が多く、そのたびに列車に乗って宿舎から宿舎へ移り住む幼少期を過ごす。汽車による移動が多く、描いた絵のうち、一番古い記憶に残っているのは南満洲鉄道の機関車の絵[4]。裕福な暮らしの中で育ち、父親が大切にしていた拳銃をこっそり抱いて寝た思い出がある[5]。 1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎えるも、父親が銃火器隠匿の容疑により当局に逮捕されたことで逃げ遅れる。捜査の途中、あと少しで取り残される間一髪のタイミングで、父親の友人たちに助けられ一家揃って貨車に乗り込む。しかし石炭を運ぶような天蓋のない車両の中で、かぼちゃに穴が空くくらいの大きな雹が降り注ぎ、乗客同士で毛布を広げ身を守りながら、なんとか大連市まで行き着く[6]。 大連で引き揚げ船に乗船するも、船底に詰め込まれ、酸欠状態と栄養失調の中で階段から落ち頭を強打。意識の朦朧とする中で日本へ帰国。両親の故郷である鹿児島県の指宿市に住むことになった。[7]。 指宿市立丹波小学校へ進学すると貸本屋の息子と仲良くなり、既に漫画を描く帳面を作っていた彼に刺激され、自身も漫画を描き始める。当時の映画スターや、『冒険ダン吉』『蛸の八ちゃん』などをはじめとした人気漫画のキャラクターの似顔絵を描くのが精一杯で、漫画家になれるどころか、なろうという気すら無かった[8]。 友人たちとの遊びに加え、農業、林業、漁業、温泉宿、よろず屋と5つの商売をしていた家業の手伝いに明け暮れ、指宿市立南指宿中学校への進学後は3年生になるまで、高校進学には受験が必須であることを知らなかった[9]。とはいえ、温泉宿では、テキ屋、大道芸人、ガマの油売り、占い師、訳アリのカップルなど多様な背景をもつ大人との交流が日常的に行われ、時には大人の世界の厳しさも教えられていたことから、自身にも高校へ進学する意思はなかった[10]。 しかし両親の意向もあって急遽試験勉強を始め、木材工芸科のある鹿児島県立指宿高等学校へ進学。バロンは中退の希望と横浜の造船所で働きたい旨を両親に伝えていたが、ある日、武蔵野美術大学と日本大学芸術学部へ入学した2人の先輩が両親を訪ね、高校卒業後はバロンを美術大学へ進学させるよう説得。それをきっかけに、バロン自身も「挿絵画家だったらなれるかもしれない」と思い始め、美術部へ入部。富岡鉄斎やミケランジェロの画集をよく図書室で広げていた[11]。 上京・漫画家デビュー1959年(昭和34年)、武蔵野美術大学西洋画科へ入学。入試時の面接官は当時武蔵美で教職に就いていた画家の麻生三郎が担当した[12]。 多くの教員が抽象画に傾倒する中、なかなか関心を持つことができなかったバロンだったが、一方、時期を同じくして漫画界では辰巳ヨシヒロやさいとう・たかをらが中心となった劇画工房が結成され、新たな漫画表現「劇画」が誕生。様々な貸本投稿誌において新人漫画家を募集をしていたこともあり、バロンも同世代が描いた劇画に激しく触発され、オリジナルの作品を描いて応募。同年、『街』(セントラル文庫刊)に投稿した『ほしいなあ』が入選、新人特別賞を受賞したことで、漫画家デビュー。初めての原稿料をもらいに出版社へ行ったところ、同い年の男性も原稿料をもらいに来ており、さいとう・たかをの元へこれから遊びに行くことを伝えられ、バロンも同行。(男性は後にさいとう・プロダクションにて石川フミヤスと共にチーフアシスタントとして活躍した武本サブロー)当時のさいとうプロはアシスタントの募集はしていなかったが、この体験を機にバロンは劇画の世界へ飛び込むことを決意し、武蔵美を2年次の途中で中退する[13]。 貸本時代その後、当時の下宿先からほど近い場所でアシスタントを募集していた横山まさみちの元を訪ね、最初のアシスタントとなり、ストーリー作りを学ぶ[14]。既に漫画家として作品を発表していた谷間夢路(当時のペンネームは″鬼童譲二″)や、後にアニメーターとして活躍する荒木伸吾、漫画家の小畑しゅんじ、たがわ靖之らも続いて横山プロダクションに入門した。アクションやSF、青春物などの貸本漫画を本名「吉元正」の名義で発表し、貸本業界に活動の場を広げた[15]。 並行して、画力向上のためセツ・モードセミナーへ入学。長沢節、穂積和夫などファッション・イラストレーターから絵を学ぶ。また、かつて銀座に存在した洋書店「イエナ書店」へ行っては、海外作家の画集やアメリカン・コミックス、バンド・デシネにおけるリアル志向の描写から大きな刺激を受けていた[12][16]。 雑誌デビュー横山プロダクションから独立後はアメコミタッチのアクション作品を大手出版社へ持ち込むも「もっと売れる絵柄でないと」と門前払いの対応が続く。そのような中、双葉社への持ち込み時に、当時「漫画ストーリー」の編集長を務めていた清水文人と出会う。「あ、これだ。16枚描いてこいよ」と即日採用が決まり、1967年(昭和42年)、「漫画ストーリー」5月13日号に掲載された読み切り『白い墓穴』で雑誌デビュー[17]。 バロン吉元の名は、同年、同誌に掲載された読み切り『ベトコンの女豹』から使用。(本人曰く「編集部に勝手に付けられた名前」とのこと。詳しくは#エピソードを参照)[18][3][19] その後、1967年(昭和42年)に清水文人が初代編集長を務めるかたちで「漫画アクション」(双葉社)が創刊、モンキー・パンチと共に二大新人として売り出される。(表紙では、当時既に人気漫画家であった石ノ森章太郎や水木しげる、小島功らを差し置き、両氏の名前が大きく掲載された)[19] 基本的に青年漫画のフィールドで時代劇、戦記、伝記、ギャンブル、SF等幅広い作品をこなす。一方で少年漫画誌にも活躍の場を持ち、「少年サンデー」にて、『黒い鷲』や『力童くん』を連載する。 代表作『柔俠伝』シリーズ1970年(昭和55年)、大阪万博で始まり三島由紀夫の割腹自殺で終わった激動の年に開始され、以後10年間にわたり「漫画アクション」に連載。1970年代を代表するヒット作であり、明治から昭和を舞台とした親子4代に渡る大河マンガは幅広い世代に人気を博した。 連載終了と渡米1980年、手塚治虫を筆頭に、モンキー・パンチや永井豪らと共に、日本のマンガのPRを目的としてサンディエゴ・コミコンを訪問。帰りの飛行機で隣になった手塚より、「アメリカに時々行く漫画家4~5人で、1人1000万円ずつ出し合ってプール付きの豪邸を買わないか?」との提案を受ける。アメリカに拠点を持ち作品を発表することに強く賛同したバロンだったが、結局人が集まらず、計画は立ち消えに。しかし既にアメリカでの活動に期待を膨らませていたバロンは、ロサンゼルスにある、医者や弁護士などが多く住む「ドクターヒルズ」と呼ばれる場所、ランチョパロスベルデスに535坪・プール付きの家を購入。全ての連載を終わらせ、単身渡米する[20]。 ニューヨークへ行き、マーベル・コミックから刊行された英雄コナンのコミカライズ本にて作品を発表。(日本人がマーベル・コミックで作品を発表したのはこれが初といわれる[12]。) スタン・リーの呼びかけもあり、その後もマーベルへ持ち込みを行うも、アメコミ調の作品ではなく、サムライのハラキリモノや、芸者の話、ヤクザの話を描いてほしいとの注文を受ける。世界的にジャパンバッシングの激しい時代だったこともあり、日常的に差別を感じていたバロンは反動的にオファーを断り、その後はペントハウス (雑誌)などへイラストの寄稿を行う。 帰国・絵画制作の開始1985年(昭和60年)に帰国後は、漫画執筆と並行しながら絵画制作を開始。1990年前後からは、画家としての活動はバロン吉元の名を伏せるかたちで、″龍まんじ″の雅号を使い始めるが、展示をしたり作品を売るという考えは全くなかった[21]。 2003年(平成13年)、文化庁指名により、第一回文化庁文化交流使としてスウェーデンに赴き、様々なレクチャーやイベントを通して、日本の漫画文化を伝える。[22]。当時の教え子には、後に日本で漫画家としてデビューするオーサ・イェークストロムがいた[2]。 その後、2005年(平成15年)には漫画原作者の小池一夫から、大阪芸術大学にキャラクター造形学科を立ち上げる話があり、教授として招聘される。以降、2013年まで後進育成と絵画制作に専念する[23]。 近年2015年(平成27年)、雅号をバロン吉元に統一し、現在に至るまで国内外で活動[24]。 (詳しくは#主な展覧会を参照) 2017年(平成29年)には″バロン吉元″としての活動50周年を記念した画集『バロン吉元 画俠伝 ArtWork Archives』がリイド社より刊行、同じく漫画家である山田参助が編集を担当[25]。 また、京都・高台寺において「バロン吉元 画俠展」が開催され、北書院における原画展の他、本堂・方丈では高台寺への奉納襖絵が公開された[26]。 画業60周年を迎えた2019年(平成31年)には弥生美術館にて企画展「画業60年還暦祭 バロン吉元☆元年」が開催され、トークイベントにはあがた森魚、荒俣宏、鈴木敏夫、寺田克也、山田参助が登壇した[27][28]。 2019年度第48回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞[29]。
エピソード
師匠
アシスタント出身者
主な漫画作品
主な展覧会
出演映画
「バロン吉元」関連書籍
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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