ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン (أسامة بن محمد بن عوض بن لادن 、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin,[ 7] [ 8] 1957年 3月10日 - 2011年 5月2日 )は、サウジアラビア 出身のイスラム過激派 テロリスト 。
サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍 であった。1988年 に国際テロ組織「アルカーイダ 」を設立してその初代アミール (司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件 をはじめとする数々のテロ 事件を首謀したことで知られる[ 9] 。連邦捜査局 (FBI)における最重要指名手配 者の1人であった。
2011年5月、パキスタン のアボッターバード においてアメリカ海軍特殊戦開発グループ が行った軍事作戦によって殺害された 。
名前と表記
日本語 では、ウサマ・ビン・ラーデン (外務省 )[ 10] 、オサマ・ビンラディン (NHK 、テレビ朝日 など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ 、TBS 、フジテレビ 、テレビ東京 など)、ウサマ・ビンラーディン (読売新聞 など)などとも表記される[ 11] 。
フスハー でのフルネームは「ウサーマ・イブン・ムハンマド・イブン・アワド・イブン・ラーディン 」であり、「ビン・ラーディン(=ラーディンの息子)家のアワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する[ 7] [ 8] 。
「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフターニー(Laden Ali al-Qahtani)を示すものである[ 12] 。
ウサーマの息子ウマル・ビン・ラーディン (英語版 ) によれば、一族に受け継がれる部族名由来の家名(ニスバ)は「アル=カフターニー (アラビア語 : القحطاني , āl-Qaḥṭānī )」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこのニスバを使用することはなかった[ 13] 。
経歴
出自
ドバイ にあるサウディ・ビンラディン・グループ のオフィス
ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本 を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた[ 14] [ 注 1] 。
出生から青年期まで
ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤド で、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディン と、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス (英語版 ) )の間に生まれた[ 15] [ 16] 。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている[ 16] [ 17] 。
父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった[ 16] 。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派 ムスリムとして育てられ[ 18] 、1968年から1976年にかけてはジッダ の世俗的なエリート校で教育を受けた[ 16] [ 19] 。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学 に進学して経済学 と経営学 を学んだ[ 20] 。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や[ 21] 、1981年に行政学 の学位を取得したという報告が存在する一方で[ 22] 、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する[ 23] 。
大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動 に精力的に参加したほか[ 24] 、詩作にも興味を示し[ 25] 、バーナード・モントゴメリー やシャルル・ド・ゴール の著作を好んで読んだと言われている[ 26] 。思想の面では、ムスリム同胞団 に加入し、サイイド・クトゥブ の思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザーム の教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義 から、音楽 や映画 などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFC のファンでもあった[ 26] 。
アフガニスタン紛争への参加(1979–1989年)
ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻 した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーン を支援するための活動を始めた。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている[ 28] 。
1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金 が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国 を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワル で活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザーム と合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト (MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた[ 30] [ 31] 。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリー やアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー 、オマル・アブドッラフマーン などと関係を構築したのもこの時期であった。
1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた[ 32] 。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦い (英語版 ) ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった[ 32] 。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった[ 33] 。
1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦 )[ 34] 。ジャーナリストのジェイソン・バーク (英語版 ) によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた[ 35] 。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハミド・グル (英語版 ) 中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍 が全面的に担当していた[ 36] 。
アルカーイダの結成
1988年 、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ 」を立ち上げた。ローレンス・ライト の調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団 の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった[ 37] 。
1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退 が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した[ 38] 。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた[ 30] [ 39] 。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ )を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された[ 30] [ 38] 。
湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)
1990年8月2日、サッダーム・フセイン のイラク軍 がクウェート に侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド 国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒 のアメリカ軍 を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した[ 40] 。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた[ 41] 。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュ はアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した。
ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島 に常駐することは預言者ムハンマド によって禁じられていると解釈しており[ 43] 、メッカ ・マディーナ という2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した[ 44] 。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家 )を「背教者」として糾弾した[ 43] 。湾岸戦争 が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。
1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した[ 38] [ 44] 。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダン に移動した[ 38] [ 44] 。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦 の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤール に対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた。
スーダン時代・アフガニスタンへの帰還
アフガニスタンのカーブル でパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミルからインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年頃)
FBI10大最重要指名手配
スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線 と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた[ 17] [ 44] 。
1992年12月29日、イエメンのアデン でアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した[ 38] 。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている[ 38] 。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件 が引き起こされ、6人が死亡した[ 44] 。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した[ 38] 。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した[ 44] 。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)[ 17] [ 44] 。
1996年5月、スーダンのオマル・アル=バシール 政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した[ 38] 。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバード を選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた[ 46] 。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン 政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマル と親密な関係を築いた[ 44] [ 47] 。
1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー (布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード (聖戦)」を宣言した[ 48] 。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカ とマディーナ )を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた[ 44] 。1997年5月、ジハード団 の指導者であったアイマン・ザワーヒリー がアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった[ 49] 。
1997年3月、ビン・ラーディンはパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミル (英語版 ) によるインタビューでアメリカは間もなく超大国ではなくなると予測してアフガニスタン、パキスタン、イラン 、中華人民共和国 による反米同盟を提案し[ 50] 、中国の新疆ウイグル自治区 でのテロは中国とイスラム世界が団結することを阻みたいCIA によるものだとして関与を否定した[ 51] [ 52] [ 53] 。
1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線 」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク (エルサレム)と聖なるモスク (メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した[ 54] [ 55] 。
1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニア のダルエスサラーム とケニア のナイロビ のアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し 、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した[ 56] 。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントン はアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイル による爆撃が実施された[ 58] 。1999年6月、FBI はビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯 に指定した[ 58] 。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会 において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された[ 59] 。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け 、17人の水兵を殺害した[ 58] 。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた[ 60] 。
アメリカ同時多発テロ事件以後(2001–2011年)
ビン・ラーディンとアイマン・ザワーヒリー (2001年)
2001年 9月11日 のアメリカ同時多発テロ事件 直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた[ 61] 。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局アルジャジーラ を通じて声明を発表し、事件への関与を否定した[ 62] 。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた[ 63] 。2001年9月20日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュ は「対テロ戦争 」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた[ 61] 。
ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする勇気ある有志連合諸国は憎きテロ組織を討伐するためアフガニスタンへの空爆を開始した[ 61] 。2001年11月、ジャラーラーバード 郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた[ 64] 。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員ハレド・アル=ハルビ (英語版 ) との会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた[ 65] 。11月末には有志連合の侵攻によってターリバーン政権が崩壊 し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。
アメリカ軍が2001年11月に回収したビデオテープの中で、アル=ハルビ(右)と会話するビン・ラーディン(左)
2001年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州 トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリス ・ドイツ ・北部同盟 各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した[ 注 2] 。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州 の洞窟に潜伏していると考えられていた。
2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた[ 67] 。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め[ 67] [ 68] 、ワールドトレードセンター のツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略 した際に見た光景がきっかけであったと説明した[ 69] 。
2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病 に苦しみ常に人工透析 の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、フランス の地方紙などが伝えたもので、腸チフス で死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク 大統領 が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア ・FATA)ではないかという見解を示した[ 70] 。
2010年 10月18日 、CNN は北大西洋条約機構 当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民 に保護され、同国北西部の家屋に居住 しており、付近にはアイマン・ザワーヒリー も住んでいるとされた[ 71] 。
発見と死
2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。
2011年5月2日(米国現地時間5月1日 )、パキスタン においてバラク・オバマ 大統領(当時)に命じられて米国海軍 特殊部隊 ・DEVGRU が行ったネプチューン・スピア作戦 によって殺害された[ 72] 。
人物・家族
FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた[ 73] 。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された[ 74] 。
ビン・ラーディンは1974年にシリアのラタキア で最初の結婚をした[ 75] 。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する[ 76] 。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており[ 77] [ 78] 、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した[ 79] 。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという[ 80] 。
実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)[ 81] [ 82] 。ムハンマドの死後、長兄であるサーレム・ビン・ラーディン (英語版 ) が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州サンアントニオ 近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した[ 83] 。
父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領 ジョージ・H・W・ブッシュ とともにカーライル投資グループ の大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは元アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュ がかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが反米 に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある[ 84] 。
2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ 」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機 による爆撃で死亡した可能性があると報じた[ 85] 。しかし同年12月、サウジアラビア資本 でイギリスの首都ロンドン で発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト 」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として[ 86] 、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン 国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話 でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡 し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。
2012年5月2日、ビン・ラーディンと共に潜伏生活を送っていた3人の妻と11人の子どもたちは拘留され、翌年に妻と二人の娘たちがパキスタンへの不法滞在で起訴された。別荘で45日の禁固刑を終えた後、2人の妻はサウジアラビアに、1人の妻はイエメンにそれぞれの子どもたちと強制送還されたという[ 87] 。
2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディン を国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した[ 88] 。
2019年9月14日、アメリカのトランプ 大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した[ 89] 。
2023年、フランス政府はビン・ラーディンの息子であるオマル・ビン・ラーディンに対して「テロを擁護するコメントをSNSに投稿した」ことを理由に国外への退去命令を出した[ 90] 。
活動の年譜
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ウサーマ・ビン・ラーディン に関連する
メディア および
カテゴリ があります。
脚注
注釈
出典
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参考文献
外部リンク