アンヘル・ベローア
アンヘル・マリア・ベローア・セルモ(Ángel Maria Berroa Selmo , 1978年1月27日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投右打。 経歴アスレティックス傘下時代1997年8月14日、アマチュアのFAとしてオークランド・アスレティックスと契約を結んだ[1]。この年と翌1998年の2シーズンは、マイナーリーグでも試合に出場する機会はなかった。 1999年、マイナー組織 (ルーキー級) の1つであるアリゾナリーグのAZL・アスレティックスでプロデビューを果たした。ここでは46試合に出場し、打率.290・2本塁打・24打点・11盗塁という成績を残して俊足を発揮した。守備面では拙守を呈し、ショートを守った31試合で15失策 (守備率.903) を犯したほか、9試合のサード守備でも3失策を犯した。後に飛び級でミッドランド・ロックハウンズ (AA級) に昇格したが、4試合で打率.059と不振に苦しんだ。守備のレベルもルーキー級と同レベルで、全4試合でショートを守って2失策・守備率.889という成績に終わった。 2000年は、A + 級のバイサリア・オークス (カリフォルニアリーグ所属) に降格して出直しとなった。オークスではショートのレギュラーに定着し、129試合に出場した。打撃面では打率.277・10本塁打・63打点・11盗塁という成績を記録し、プロ初となる2ケタ本塁打、2年連続で2ケタ盗塁をマークするなど、収穫があった。一方、守備力は相変わらずであり、128試合のショート守備で54失策という、驚異的なペースでエラーを量産した。 ロイヤルズ時代![]() (2004年8月8日) 2001年にカンザスシティ・ロイヤルズに移籍し、同年9月18日の対クリーブランド・インディアンス戦でメジャーデビュー。 2003年には、松井秀喜やロッコ・バルデッリを抑えてルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いているが、その後は伸び悩んでいる。それでも、ロイヤルズでは2003年から2006年までレギュラー格の遊撃手として試合に出場しており、この間4年連続で規定打席に到達している。 2007年にはアトランタ・ブレーブスから移籍してきたトニー・ペーニャにレギュラーを奪われる形となり、わずか15試合の出場となった。この年、メジャーで初めて遊撃手以外のポジション(二塁手・三塁手)でもプレーした。 ドジャース時代![]() (2008年6月13日) 2008年6月6日、ロサンゼルス・ドジャースにトレードされ、ラファエル・ファーカルが故障で抜けた遊撃のポジションを守った。 ヤンキース時代![]() (2009年5月8日) 2009年1月6日に年俸60万ドルでニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。4月25日にメジャー昇格。しかし6月24日にコーディ・ランサムが故障から復帰したことに伴って戦力外となり、7月7日にヤンキースから解雇された。 メッツ時代7月11日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結ぶと16日にメジャー復帰を果たしたが、8月7日に戦力外となった。 2010年3月22日に解雇された。 ジャイアンツ傘下時代4月28日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだが、6月26日に解雇された。 ダイヤモンドバックス傘下時代2011年7月24日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。 独立リーグ時代2012年4月4日に、カナディアン・アメリカン・リーグのニュージャージー・ジャッカルズと契約を結んだ。7月26日に、球団から野球界から現役引退しサッカーに転向する意思がある事が発表されたが、成績が向上したため撤回した。 メキシカンリーグ時代2013年はメキシカンリーグのユカタン・ライオンズでプレー。 2015年はラグナ・カウボーイズと契約したが、6月12日に解雇となった。 プレースタイル新人王に輝いた2003年には17本塁打を放っており、2005年にも2ケタ本塁打をマークしたことがあるが、パワーは平均レベル[2]。俊足且つコンパクトなスイング技術を持っており[3]、リードオフマンとして起用される機会も多いが、大振りする傾向にあり且つ早打ちで、いつまでもその傾向が治っていない[4]。 守備では守備範囲が広く強肩でもあり、球際での強さを生かしたファインプレーも多いが、一方で何でもない送球ミス・捕球ミスが多い[2][5][3][4]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰記録
背番号
出典
関連項目外部リンク
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