渡辺長
渡辺 長(わたなべ はじめ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣で長州藩士。毛利十八将の一人。官位は従五位下・飛騨守。 生涯渡辺氏は源頼光の家臣・渡辺綱の後裔で、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。 天文3年(1534年)、毛利氏の譜代家臣である渡辺通の嫡男として誕生。天文12年(1543年)、大内義隆による第一次月山富田城の戦いで父・通が戦死すると跡を継ぎ、父と同様毛利元就に仕えた。 天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、11番目に「渡邊小三郎長」と署名している[注釈 3][1]。 元服前の天文17年(1548年)に山名理興の拠る備後国神辺城(村尾城)への攻撃(神辺合戦)において槍働きで武功を挙げたのを始めとして、天文20年(1551年)の安芸国高屋頭崎城の平賀隆保との合戦、天文21年(1552年)の備後志川滝山城での宮氏との合戦、天文24年(1555年)の厳島の戦い、永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦い等で活躍した。 これらの活躍により、天文11年(1542年)に安芸豊島定末名、天文19年(1550年)に安芸下麻原300貫の代官職、弘治3年(1557年)に安芸山里・九嶋の内の30貫と津田の内の20貫、天正13年(1585年)に周防国玖珂郡三瀬川村[注釈 4]等を宛行われた。 元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、その孫である毛利輝元に仕える。天正14年(1586年)の九州平定に従軍し、天正16年(1588年)には輝元に従って上洛して、豊臣秀吉から豊臣姓と従五位下・飛騨守の官位を賜った[注釈 5]。文禄2年(1593年)3月3日、三分一孫作に「長」の偏諱を与えている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防国と長門国の2ヶ国へ減封されると長も周防国に移り住み、周防国玖珂郡山代庄広瀬村の2468石2斗余、玖珂郡湯野村208石4斗余、長門国厚東郡高泊村246石7斗余の合計2923石4斗余の地を与えられ、広瀬村にある朝霞城を居城とした。 慶長17年(1612年)2月24日に死去。享年79。嫡男の元が跡を継ぎ、同年8月16日には元が知行する周防国玖珂郡河山村の1353石余、玖珂郡広瀬村の648石4斗余に父・長の旧領が加わり、合わせて4924石9斗余の地が与えられることとなる。 なお、三男の小五郎は天正12年(1584年)に伊予国恵良で戦死し、四男の四兵衛は文禄・慶長の役において戦死している。 系譜脚注注釈
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