桂就延
桂 就延(かつら なりのぶ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。 生涯毛利氏の譜代家臣である桂広澄の三男として生まれる。初めは元信と名乗り、後に就延と改名した。 天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて、毛利元就の命により井上元兼をはじめとする安芸井上氏の一族30余名が粛清されたが、この時に就延は元就の命を受け、吉田郡山城に呼び出された井上就兼を殺害した。安芸井上氏粛清後の同年7月20日に書かれ、毛利氏家臣238名が連署して毛利氏への忠誠を再確認した起請文では、9番目に「桂源右衛門尉就延」と署名している[注釈 1][1]。 元亀元年(1570年)、毛利輝元は尼子勝久攻めのために出雲国へ出陣し、これに就延も従軍した。同年8月、元就が吉田郡山城において重病に罹ったとの急報が、出雲国島根郡に在陣していた輝元らにもたらされたため、輝元は小早川隆景と共に毛利軍の主力を率いて安芸国に帰国することとなった。出雲国には吉川元春や宍戸隆家らが残り、就延は志道元良と共に出雲国鴟ノ巣城の城将として守備についた。 天正7年(1579年)、毛利氏から離反した宇喜多直家との戦いにおいては備中国賀屋郡の四畝忍山城攻めに参加した。忍山城陥落後には忍山城付近の鎌倉山に付城を築き、野山宮内大輔と共に鉄砲衆を率いて付城に入った。天正8年(1580年)には、毛利氏家臣の赤川元房と岡元辰や三村親成家臣の竹野井惣左衛門尉と共に備中国勝山城に入城している。 没年は不明。 脚注注釈出典参考文献 |