1970年のメジャーリーグベースボール以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1970年のできごとを記す。 1970年4月6日に開幕し10月15日に全日程を終え、アメリカンリーグはボルチモア・オリオールズ(東地区優勝)が2年連続4度目のリーグ優勝で、ナショナルリーグはシンシナティ・レッズ(西地区優勝)が9年ぶり5度目のリーグ優勝であった。 ワールドシリーズはボルチモア・オリオールズがシンシナティ・レッズを4勝1敗で破り、4年ぶり2度目のシリーズ制覇であった。 シーズン直前に前年にアメリカンリーグに加盟したばかりのシアトル・パイロッツがミルウォーキーに本拠地を移転してミルウォーキー・ブルワーズ となった。 1969年のメジャーリーグベースボール - 1970年のメジャーリーグベースボール - 1971年のメジャーリーグベースボール できごとアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
ワールドシリーズ
シアトルからミルウォーキーへ前年のエクスパンション(球団拡張)で急遽アメリカンリーグに加盟したシアトル・パイロッツだったが、準備不足ですぐに財政が行き詰まり、そこで4年前にブレーブスに去られて球団誘致を模索していたミルウォーキーのバド・セリグらが働きかけて、シーズン終了とともに買収してミルウォーキーへの移転を合意していた。しかしこれにアメリカンリーグが難色を示し、しかもシアトルでも他の出資者を募って球団を維持する動きがあり、移転が宙に浮いた状態で春のキャンプが始まった。そして最終的にシアトル・パイロッツの破産宣告が認められて、1970年4月1日に正式にミルウォーキーへの移転が決まった。この時にミルウォーキー市当局は、新球団が観客動員で年間100万人に達するまで市営のカウンティ・スタジアムの使用料を1ドルに抑えると約束し、シーズン開幕直前でキャンプ地から球団関係の備品などを積んでシアトルに向かっていたトラックは、途中で方向を変えてそのままミルウォーキーへ向かった。4月6日の開幕のわずか5日前で、あわただしいミルウォーキー・ブルワーズ の門出であった。球団を買い取ったバド・セリグ はこの28年後に第9代MLBコミッショナーになる。 フラッド訴訟前年10月に、球団からフィラデルフィア・フィリーズへの移籍を通告されたカージナルスのカート・フラッドは、トレードを拒否してボウイ・キューンコミッショナーに書簡を送り、「私は自分の意志に反して売り買いされる所有物ではない。選手を商品のように売り買いする制度は、どんなものであれ市民としての基本的権利を侵すものであり、アメリカの法律に違反している」と主張した。しかしコミッショナーは「フィリーズでプレーすることに合意しなければ、プロでプレーしないという選択肢もある」と返事してフラッドの訴えを却下した。フラッドは選手会事務局長マービン・ミラーの支援を受け選手会もフラッドを支持することを決議して、この年1月16日に連邦裁判所ニューヨーク支部に民事訴訟を起こし、野球機構は選手を奴隷状態に拘束する組織であり、トレードの強制は独占禁止法に違反するとして野球機構と両リーグに対して100万ドルの損害賠償を求めた。これに対して前年12月にウォーレン・ジャイルズに代わってナショナルリーグ会長になったチャップ・フィニーとアメリカンリーグ会長のジョー・クローニンは、翌日に「フラッドの訴えが認められれば、それはプロ野球の終わりを意味する」との共同声明を発表した。 選手会は前年12月に、保留条項の修正、最低年俸の引き上げ、年間162試合を154試合に減らすことなど41項目にわたる要望書をオーナー側に提出していた。年明け2月27日に前の週に提示された新しい基本契約書を検討した結果、満場一致で拒否することを決め、前年と同じくストライキの構えを見せたが、しかし直前に両者が歩み寄ってストライキは不発に終わった。まだこの頃は選手にストライキを打つことに抵抗があった(初めてストライキを起こしたのは2年後である)。そして8月12日に予審裁判で「保留条項は、選手の供給源を確保するために条項を保持することを全ての球団が同意しており、変更はできない」としてフラッドの訴えは認められなかった。フラッドはすぐに控訴審に上訴した。 デニー・マクレイン事件年明け早々の1月2日に、司法省、財務省及びFBIで組織された特別捜査班はデトロイト、フェニックス、ラスベガスなどで野球・フットボール・バスケットボール・アイスホッケー・競馬などを対象としたスポーツ賭博団を摘発し、その中で元カージナルス投手のディジー・ディーンを取り調べた。ボウイ・キューンコミッショナーは2月10日に元FBI捜査官をコミッショナー直属の調査官に採用してタイガースのエースのデニー・マクレイン投手の調査を始めた。連邦レベルの特別捜査班はディジー・ディーンもデニー・マクレインも証拠が見つからなかったと発表したが、コミッショナーは1967年の賭博行為に関わった疑いがあるとしてマクレインに無期限出場停止の処分を下した。そして4月1日に1967年1月に賭博行為に関してマクレインは被害者であると発表して6月30日までの出場停止処分を科した。この処分についてブラックソックス事件以降もマイナーリーグで賭博に関わった選手を永久追放処分にしたこともあって、当時すでに引退していた元ドジャースのサンディ・コーファックスは「有罪であれ無罪であれ野球選手はたとえ話の中でも賭博に触れてはならない」として中途半端であると批判した(ブラックソックス事件の選手たちは裁判で無罪判決を受けた直後に永久追放処分を受けた)。デニー・マクレイン投手は7月1日からマウンドに復帰したが球威が戻らず3勝5敗の成績で、新聞記者にバケツの水を浴びせ、9月9日にコミッショナー事務局へ出頭を命じられてピストル不法所持の疑いでシーズン末までの出場停止処分を受けた。1968年に31勝、1969年に24勝を上げて2年連続最多勝で通算117勝の26歳の若きエースは、翌1971年にセネタースに年俸10万ドルで移籍した。しかしこれ以降わずか14勝しか上げていない。 記録
その他
最終成績レギュラーシーズン
オールスターゲーム→詳細は「1970年のMLBオールスターゲーム」を参照
ポストシーズン
リーグチャンピオンシップシリーズ→詳細は1970年のALCS,1970年のNLCS参照
ワールドシリーズ→詳細は「1970年のワールドシリーズ」を参照
個人タイトルアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
表彰全米野球記者協会(BBWAA)表彰
その他表彰
アメリカ野球殿堂入り表彰者BBWAA投票 ベテランズ委員会選出 出典
関連項目外部リンク |