間垣間垣(まがき)は、日本相撲協会の年寄名跡のひとつ。初代・間垣が四股名として名乗っていたもので、その由来は定かではない。享保時代(1716年-1737年)に創設され、約300年の歴史をもつ由緒ある名跡である。戦後、不祥事や病気などで退職を余儀なくされた襲名者が多いことから「呪われた名跡」とも呼ばれている[1]。 名跡の変遷1958年9月場所限りで引退した元小結・清水川は、16代間垣を襲名すると追手風部屋の部屋付き親方となったが、翌年には分家独立して間垣部屋を創設した。しかし関取に恵まれず1975年に部屋は閉鎖となり、1979年、16代間垣は肝硬変のため53歳で死去した。1981年9月場所限りで引退した元関脇・荒勢は、17代間垣を襲名すると花籠部屋の部屋付き親方となった。 12代花籠(横綱・輪島)は17代間垣と同様に日本大学出身であったが、17代間垣は、1983年、既に引退していた56代横綱・二代目若乃花に名跡を譲り、芸能界へ転進し相撲界を去った。 二子山部屋所属の56代横綱・二代目若乃花は1980年に師匠である10代二子山(45代横綱・初代若乃花)の長女と結婚したが、約1年で離婚したうえ、以前より交際していた女性と再婚。これらの行動が影響する余波で年寄名跡を取得できず、1983年1月場所の引退時点では横綱特権の現役名年寄・若乃花となっていた。1983年5月に同門の荒勢の間垣株を取得すると、18代間垣となり二子山部屋の部屋付き親方となったが、同年12月に間垣部屋を創設した。18代間垣は複数名の弟子を幕内に育てた一方で、自身や弟子についてのトラブルが頻発し、再婚した夫人に2005年に先立たれたショックで酒量が増加した事などが起因し、2007年に自身も脳出血を発症し、後述の通りに部屋の運営に支障を来すこととなった。 2013年12月、相撲協会が公益法人へと移行するため、親方衆に名跡証書の提出を求めたが18代間垣は提出することができず、名跡証書を保有する現役関取の名前も明かされなかったことから、一部には名跡証書が行方不明状態になっていることが報じられた[2][3]。18代間垣は既に脳出血の後遺症により後進の指導を十分に行えず、同年3月に自身の部屋を閉鎖して伊勢ヶ濱部屋の部屋付きとなっていた[4]が、18代間垣は結果的に期限までに名跡証書を提出できず、相撲協会を退職した(18代は退職後の2022年に69歳で死去している)[5]。 2014年1月、時天空が日本に帰化すると、同年5月に間垣名跡の取得を正式に届け出ていたことが同年6月に報道された[6]。相撲協会の規定では「年寄名跡は、本協会の年寄及力士の有資格者以外の第三者に譲渡し、又は担保に供することが出来ない」とあり、また1976年より「年寄名跡の襲名は、日本国籍を有する者に限ることとする」とされていた。18代間垣が名跡証書の提出を求められた2013年12月の時点では、時天空はモンゴル国籍であったために年寄名跡の襲名資格は無く、所有者の名前が明かされることも無かったとみられる。時天空は2016年8月に現役を引退して19代間垣を襲名したが、引退の原因にもなった悪性リンパ腫の病状が悪化し、在職中の2017年に37歳の若さで死去した[7][8]。 19代間垣の没後しばらくは故人の遺族が名跡を保有していたが、2018年4月に佐ノ山を借株で襲名していた土佐豊が名跡を取得して20代間垣を襲名[9]。しかし2021年2月、時津風(前頭・時津海)が不祥事のため相撲協会を退職すると、20代間垣は名跡変更により17代時津風を襲名して時津風部屋を継承した[10]。その後同年5月に横綱・白鵬(宮城野部屋)が間垣の名跡を取得[11]、同年9月に現役を引退して21代間垣を襲名し、宮城野部屋付きの親方となった[12]。21代間垣は2022年7月に宮城野部屋を継承するため12代宮城野(前頭・竹葉山)と名跡を交換して13代宮城野を襲名、代わって12代宮城野が22代間垣を襲名した[13]。22代間垣は停年後も再雇用されて相撲協会に留まっていたが、2023年6月1日付で相撲協会を退職。代わって元前頭で直前の同年5月場所では序二段に陥落していた石浦が現役を引退し、23代間垣を襲名した[14]。平成生まれでは初の名跡取得となる。 間垣の代々
脚注
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