銅鐸銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。 名称語源となった「鐸」は古代中国大陸において用いられた柄付きの青銅器の楽器である。鐸は柄を持ちもう一方の手にもった打器で鐸を打ち鳴らして音をだした。これに対して吊るして使用される楽器は「鐘」と呼ばれる。 弥生時代の銅鐸は鐸もしくは鐘のような形をしている青銅器である。日本では古くから「銅鐸」と呼んだが、実際には鐘のように吊るして使用された[1]。 銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀においてである。和銅六年(713年)に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されている。他の記録でも銅鐸の名称が見られる[2]。
12世紀の「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」など以後の記録では「宝鐸」と呼ばれた[2]。 出土これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平成13年(2001年)3月末時点での主な出土数は以下の通りである[3]。 一時は近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念が存在したが、その後吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州で多くの銅鐸およびその鋳型が出土したことから、銅鐸文化圏の概念は否定された。特に、吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸およびその鋳型が伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と完全に一致したことから、最近ではむしろ北部九州で作られたものが出雲にひろまったと考えられるようになった。 →「§ 国宝・重要文化財の銅鐸」も参照
文様に加えて絵も描かれた銅鐸も少なくなく、約13%である[4](1997年2月現在)。 形状大きさは12センチから1メートルを越すものまである。1世紀頃には高さが60センチに達し、その後さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直後鋳造が止んでいる。現存する最大のものは、滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸で、高さ144センチ、重量45キログラムに達する。 近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられている。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。その前は流水文であった。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っている。また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっている(I式:菱環鈕式、りょうかんちゅうしき)[注釈 1]。しかし、大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形は円形である。その後、II式:外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)[注釈 2]、III式:扁平鈕式[注釈 3]、IV式:突線鈕式[注釈 4]と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わる。このように銅鐸は、紐の形態が変化するとともに、銅鐸全体が大型化して、吊り下げて鳴らす楽器から、据えつける祭器に変化したことがわかる。 紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。この文様は紀元前1世紀頃に衰退する。当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているもの(絵画銅鐸)もある。伝香川県出土銅鐸に関して、その絵の意味は、「生きとし生けるもの、すべて己の生きんがためには、弱者の生を奪うこともさけがたく、われら人もまた、鹿を狩り猪を追う生活に永い月日を送ってきたが、いま農耕の業を教えられてより、年々の実りは豊かに倉に満ち、明日の食を憂うることもなきにいたった。いざ、わが祖神の恩沢を讃えようではないか」[5]と解釈し、農耕により弱肉強食の時代が終わったことを感謝する「農耕賛歌説」が定説である。 2015年に兵庫県南あわじ市で発見された「松帆銅鐸(紀元前4世紀~前2世紀前半頃と推定)」[6][7][8]は、入れ子状になっていた2組(4個)をCTスキャンで調査した結果、その全てに「舌(ぜつ)」が残されていた[9][10][11]。その後の調査で「舌」に残った紐の一部が実際に確認され、「鈕」からは紐を巻きつけた事を示す繊維片や痕跡が見つかっている[12]。この銅鐸は青銅に含まれる鉛の分析の結果、朝鮮半島で出土する銅鐸と同じ材料で作られていた事がわかった。 歴史中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している[13]。 1世紀末ごろを境にして急に大型化する(IV式:突線紐式)。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の2種がある[注釈 5]。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。 近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。 銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。 なお『古事記』の国産みには小豆島の別名として大鐸姫が登場する。 用途見た目が鐸(持ち手付きの鐘)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない。出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度推測されている。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕(ちゅう)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘やカウベルと同じ)。 これは鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされたことによる「擦れ」と考えられる痕跡や、内面突帯に舌が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためである。逆に梵鐘のような、胴体部の外面を叩くことでできたと考えられる痕跡のあるものは出土例がない。なお、銅鐸を「鳴らす」段階にあってはこの内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を2本に増やしたものが銅鐸の発達と共に増えていく。 2015年6月に淡路島で発見された銅鐸4個から音を鳴らすための青銅製の「舌(=振り子)」が発見された事を、県教育委員会が発表した。翌年、2016年1月に発見された弥生前期末~中期初頭の銅鐸7個の全てに、舌とそれを吊るすためと思われる紐の存在が確認され、銅鐸は吊りさげて使用されていたと推測されるようになった。 1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的なものへの変化が見られることから、銅鐸の利用法が、音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとする説が支持を集めている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(田中琢)、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。また、すでに鳴らすことを放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)されたものもある。これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた、もしくは「鳴らす」ためとは別の目的があった可能性が考えられる。 古語拾遺には天の岩戸の祭事において天細女が鉾に鐸をつけて踊るという描写がある。現在でも小野神社など伝わる鐸鉾のような使われた方をした可能性がある。 埋納状況埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも2例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も稀にある。あまり注目される事が無いが頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。松帆銅鐸のように海岸砂丘部に埋納されていたと推定される珍しい例もある。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説ある。
銅鐸はしばしば破壊された状態で発見される。たとえば、兵庫県豊岡市の久田谷銅鐸は、5~10cm前後に砕かれた状態で発見された。奈良県桜井市の脇本遺跡からは、銅鐸の破片の他に銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土し、「銅鐸片を溶かし、鏡や鏃(やじり)などの青銅器に作り替えた」可能性が寺沢薫により指摘されている[14]。また、銅鐸は発見後に破壊される例もある。たとえば、四区袈裟襷紋に絵画の鋳出された谷文晁旧蔵銅鐸は、表裏八区画のうち、片面上段の左右二区画が欠損している。これは「江戸時代に花器として銅鐸を使うことが通人の間で流行したことによる」と考えられ、同様にして発見後に破壊されるケースは「容器に転用したり吊り手を切断したもの、身を切断したものなど、その犠牲になったものは二十例ほどになる」という[15]。 しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じることは危険である。 銅鐸文化圏と銅矛文化圏かつては遺跡が発掘されること自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、3つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。) しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったことが多くなった。特に佐賀県の吉野ヶ里遺跡からは銅鐸の鋳型と銅鐸が出土した[16]。また出土した銅鐸が島根県の福田型銅鐸と酷似しており、同じ鋳型で吉野ヶ里で生産された銅鐸が島根県まで移出された可能性が高くなった[17]。さらに福岡県、大分県などでも多数の銅鐸や鋳型が出土している[18]。 このため、「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」という言葉は論じられることがなくなり、小学校の教科書からも記述が削除されている。 一方三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており[19]、出土分布が島根県(大国主神など出雲神話の舞台)、兵庫県(播磨国風土記など出雲系神話の舞台)、徳島県(天八現津彦命の後裔が定住)、高知県(天八現津彦命の後裔が定住)、奈良県(事代主神など三輪氏の本拠)、滋賀県(和邇氏一派や三上氏の本拠)、長野県(建御名方神の後裔が定住)であるように、三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説もある。これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる[20]。 国宝・重要文化財の銅鐸*印は国宝、他は重要文化財。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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