金剛正裕
金剛 正裕(こんごう まさひろ、1948年11月18日 - 2014年8月12日)は、北海道雨竜郡一已村(現・深川市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は北村 正裕(きたむら まさひろ、旧姓:吉沢)。得意技は右前褌、寄り。最高位は東関脇[1]。 来歴入門 〜 幕内定着1948年に北海道で生まれる。兄弟と同じく運動神経が抜群で、特に音江中学校時代は野球で剛速球投手・4番打者として活躍し、北海高等学校から勧誘されるほどだった。しかし勉強が嫌いで進学意識が全く無かったことと、1963年の夏の巡業で訪れた大鵬幸喜に憧れて力士を志すようになり、兄弟の反対を押し切って深川ハイヤーの社長の協力で二所ノ関部屋に入門した。1964年5月場所で「大吉沢」の四股名で初土俵を踏んだ[1]。金銭的な動機も多少あったようであり、後年「収支計算して選んだ」と得意の奔放な言動(後述)で入門の動機を語っていた[2]。入門後は序ノ口でいきなり7戦全勝で優勝するなど順調に出世し、1969年5月場所で新十両に昇進。これを機に四股名を「大吉沢」から「金剛」へ改名した。 十両では1970年に連続優勝を達成して同年9月場所で新入幕を果たす[1]と、憧れだった大鵬の横綱土俵入りでは露払いを務めた。大鵬が引退した後の1972年1月場所では幕内で唯一の7連勝を記録するなど定着し、同年7月場所では小結に昇進した。1974年9月場所では、この場所が新横綱だった北の湖敏満に初の黒星を付けるなど上位力士を相手に活躍していたが、勝ち越しと負け越しの繰り返して三役の定着は果たせなかった。 金剛語録1975年7月場所は前頭筆頭ながら三役力士全員に黒星を付け、特に北の湖からは金星を再度奪うなど快進撃を続け、13勝2敗で幕内最高優勝を果たした[1][3]。千秋楽の鷲羽山戦では鷲羽山の素早い動きに翻弄され、土俵際に追い詰められたものの、右の上手投げで辛勝[3]。普段から勝ち星が増えるに連れて金剛の奔放な言動がユーモラスだと話題になっていたが、幕内最高優勝を果たしたこの場所は特に冴え渡った。
金剛の奔放な言動は「金剛語録」と呼ばれた。 現役引退先々代の二所ノ関の死去を受けて後継者を誰にするかで押尾川と揉めている最中、先々代・二所ノ関の次女と婚約して未亡人と養子縁組をすることで後継者争いに終止符を打った[8]。そして幕内最高優勝から1年後、部屋継承のために1976年9月場所の直前に現役引退を表明した(9月場所番付には掲載された)。まだ27歳の若さで、部屋継承の最年少記録として残っている[1]。部屋継承後、先々代の次女とは短期間で離婚。それでも先々代未亡人から援助を受けていたこともあり、死去するまで先々代の姓である北村姓を名乗り、再婚することなく独身を貫いたという。 1995年には麻雀賭博で警視庁に逮捕される[9]。2010年に大相撲野球賭博問題が起きたことの反省から、現在なら違法賭博を犯した者に対して解雇処分などの極めて厳しい処分が科されるが、当時は現在よりも格段にコンプライアンスに寛容な時代だったこともあり、審判委員の解任と6ヶ月間20%の減俸・3月場所の謹慎など、軽微な処分を受けた程度で済んでいる。2008年には日本相撲協会の理事に就任した。ただし子飼いの関取は大善(最高位・小結)ただ一人に留まるなど弟子の育成はふるわず、2010年には部屋のマネジャー(元三段目力士)が自殺する、弟子のモンゴル人力士が稽古中に意識不明となるなど不運が重なり部屋の勢力は衰退していった[10]。現役時代にはその話の面白さから座談会への出席が頻繁に依頼され、同時に常々より「引退後はNHKの解説者だ」と公言していた。引退後、実際に解説に呼ばれる機会は多かったが、若くして一門の総帥になったことや前述の不祥事の影響もあり、往年の「金剛語録」は完全に封印。当たり障りのない解説に終始し、得意の話術で目立つことは出来なかった。2011年の大相撲八百長問題際は協会の広報部長として対応し、生活指導部長としても問題再発防止に取り組んだ。同年5月技量審査場所3日目の取組後に把瑠都が「遊びの場所みたい」などと不謹慎な発言をした際には生活指導部長の立場として翌日の場所4日目に厳重注意処分を下し、開口一番「冗談です」と弁明した把瑠都に対してさらに「お前の一言で(7月の)名古屋場所もできなくなる!」と叱責するなど厳格な態度を示した[11][12]。 2012年の理事選挙には停年(定年)退職が近いことから立候補せず、役員待遇(生活指導部副部長)に退いた。 2012年10月より脳腫瘍のため東京都内の病院に入院。10月に車で福岡入りする途中で意識を失うまでは検査でも異常が見られなかったというが、以前より「よく転ぶ」と症状が出ていた[2]、手術を受けたが思ったように回復はできず療養は長期化し、部屋経営が困難となったことから、2013年1月場所限りで部屋を閉鎖した[13]。本人は同じ一門の松ヶ根部屋に移籍し部屋付きの年寄となったが、停年を目前に健康上の事由により2013年6月20日付で日本相撲協会を退職した[13][14]。2013年6月25日には年寄名跡を玉力道に譲渡する[15]。譲渡の背景には入院費の問題があった[16]。 協会退職後は病気療養に専念していたが、2014年8月12日に死去[17]。65歳没。通夜は19日に営まれ、基本的に近親者のみで執り行われたが、玉ノ井(元大関・栃東…金剛と対戦した先代栃東の子)ら協会関係者の姿もあり、玉ノ井は「大変お世話になった方なので」と話した。喪主を務めた義理の妹によると最後は肺炎をこじらせたという[18]。 人物・エピソード細身ながら足腰が強く、右の握力87kgという怪力から前廻しを引いて左から攻めて寄る相撲は、長く幕内上位で力を発揮した[1]。「北の湖キラー」と呼ばれ、通算で5勝を挙げている。 幕下時代、スポンジとたわしとを組み合わせた浴室グッズ『痛くないタワシ』の実用新案登録を申請したが、却下された[要出典]。 バーブ佐竹やカシアス・クレイの目鼻立ちに似ていることから、親しみをこめて「バーブ」「クレイ」と呼ばれることもあった[要出典]。 1975年7月場所で平幕優勝をした際に喫した2敗のうち、初黒星(4日目)は栃東に肩透かしで敗れたものだったが、逆に栃東が1972年1月場所で平幕優勝をした際には同場所4日目に吊り出しで黒星を喫させた。 押尾川騒動以降、天龍源一郎は金剛との間に確執を抱いていた。天龍は、自身が二所ノ関部屋に連れ戻されて以降、金剛によって部屋に居づらくなった経緯をプロレス雑誌に語った。一般に天龍は押尾川騒動の後で「幕内で勝ち越してからプロレスに転身」することを決意していたとされているが、他方では1976年9月場所千秋楽の2日後にスポーツ紙がプロレス転向を報じたため金剛が「二所ノ関としての俺の体面が保てないから、辞めるなら辞めるではっきりしてくれ」と切り出し、翌日協会へ独断で天龍の廃業届を出してしまった[19]とする説もある。こうしたことから天龍は二所ノ関部屋閉鎖の際に金剛を「自業自得」と切り捨てていた[要出典]。 金剛の退職までの約1年半の間に二所ノ関一門では悲報が続いていた。2011年11月には鳴戸が急死し、2012年4月には尾車が転倒事故で頸椎を損傷し、復帰まで半年間に渡ってほぼ全身不随の憂き目に遭う。2013年1月19日には二所ノ関を代表する大横綱・大鵬が死去、そのわずか9日後の同年1月28日に金剛が病気療養のために部屋を閉鎖した。 主な成績
各年度別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝の数。
改名歴
脚注
関連項目 |