麒麟児和春
麒麟児 和春(きりんじ かずはる、1953年3月9日 - 2021年3月1日)は、千葉県柏市出身(出生時は東葛飾郡柏町)で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は垂澤 和春(たるさわ かずはる)。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、146kg。得意技は突っ張り、押し、左四つ、寄り。引退後は年寄・北陣として後進を指導し、停年まで協会に属していた。 12代式守錦太夫は甥。 来歴入門から十両昇進まで父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、柏市立柏第二中学校入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため、相撲を志すようになったという。鉄道マンとして地道に生きる父、祖父の姿は尊敬の対象だったものの、自分の将来を考えた時には、今一つ物足りなさを感じていた。いつの頃からか、和春は、「将来はなにか思い切ったことをやってみたい」と、胸をふくらませるようになり、そこで思い立ったのが、力士になることであった[1]。中学2年生のときに力士を志して「俺、今から両国に行って、お相撲さんになるから」と突然家を出て行った。突然の思い付きに母は慌てふためき、事情が呑み込めないながらも何とか垂澤と同じ電車に乗り込んで垂澤に同伴することとなった。両国に着いて最初に訪れた立浪部屋では応対した鳴戸(元幕内・大岩山)に身長不足を理由に断られ、次の時津風部屋では時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた[2]。中学3年より墨田区立両国中学校に転校し、両国中在籍中の1967年5月場所で初土俵[3]。最初は突き押しが身に付くまで時間がかかり、幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが、直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった[2]。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名(垂沢は大麒麟の付け人を勤めていた)。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい[4]。実は1973年9月場所が始まる数日前、一進一退で中々出世できないことに見込みがないと感じて家族に廃業を決意していることを明かしており、もしその9月場所で優勝しなかったらそのまま廃業していたとのことであり、自分がこれほどの力を発揮できたのは辞めると決めて吹っ切れていたためであると後年述懐している[5]。 入幕以降1974年9月場所新入幕、好成績でいきなり横綱・輪島にあわせられるなど[6]、すぐに幕内上位に定着。突っ張りを得意としたきっぷのいい押し相撲(左四つでも相撲が取れた)で入幕以来7場所連続勝ち越して関脇まで昇進し三役と三賞の常連になる[7]。輪島とは初顔の対戦以来、10度目の対戦(1976年9月場所)まで7勝3敗とカモにしていた(その後は逆にカモにされ、1不戦敗を含む1勝12敗)。同タイプの富士櫻との取組は人気を博し、1975年5月場所の8日目の天覧相撲では富士櫻と108発の猛烈な突っ張り合いを見せ[7][8]、昭和天皇が思わず身を乗り出したことは有名な話で、協会も昭和天皇が観戦する日にわざわざ割を組んだほどだった。また、時間前に立合うこともしばしばあった。本人も富士櫻との対戦が現役時代最高の思い出だったと語る(ちなみに対戦成績は麒麟児が17勝9敗と勝ち越している)。 同部屋の天龍が二所ノ関を継承した金剛と確執を抱いたことを原因として1976年9月場所を最後に廃業した際、仲の良かった麒麟児は引き止めようとした[9]。天龍は麒麟児を「尊敬できる後輩」と振り返っている[10]。 35歳になっていた時期にも若々しい相撲は変わらず、。稽古場でも巡業地でも黙々と汗を流し、若手力士も行わないランニングを続けた[11]。 1979年に左膝を負傷して十両陥落。その後小結まで番付を戻すが1981年以降になると、次第に上位には通じなくなり、幕内上位では負け越し、番付が下がると勝ち越すというパターンの繰り返しが続き、いわゆるエレベーター力士として引退まで幕内に長く留まった。昭和天皇も「麒麟児は今度は勝ち越す番だね。下位に下がったから」と言ったエピソードがあり、引退までのほとんどがこの星取りパターンだった。1981年7月場所から1984年11月場所まで実に21場所の間、地方場所では勝ち越し、東京場所では負け越しを交互に繰り返している。両国国技館こけら落としの1985年1月場所では9勝6敗と勝ち越し、このパターンをストップさせたものの、逆に翌3月場所で4勝11敗と負け越した。また1986年11月場所から1988年5月場所までの10場所間は地方場所で勝ち越し、東京場所で負け越しというパターンを辿っている。 現役引退1988年9月場所に以前から痛めていた左膝を再度負傷、この場所限りで引退し年寄・北陣を襲名した。なお、引退の経緯については入門時の師匠である佐賀ノ花の未亡人が「あなたも十分やったから、もう(辞めても)いいんじゃない」と言われ、「もう潮時かな」と思ったことなどを語っている[12]。「十両に落ちてまで、麒麟児に相撲を取らせたくない」という未亡人の親心でもあった[11]。 現役引退後はNHKのテレビ中継や『サンデースポーツ』の解説で、実技をふまえたわかりやすい説明で視聴者から親しまれた。 長く大相撲中継の明快な解説で知られたが、2015年5月場所を最後に病気のため、出演しなかった。角界関係者によれば、この頃に頭部の腫瘍摘出手術を受けた影響で顔面に麻痺の症状が残ったという[8]。そのため、現役時代の面影は薄れていたと伝わる[13]。 2018年3月8日に停年(定年)を迎えたが、再雇用制度を利用せず日本相撲協会を退職した。既に再雇用が相当ではない健康状態であった。 2021年3月1日、多臓器不全のため、死去[14]。67歳没。 死去する10年近く前に腎臓移植を受けたが、提供された腎臓との相性が良くなかったため体調を崩していたという。晩年は糖尿病と腎臓を患っていた[8]。停年近くには既に体調が悪くなっていたが、周囲に気を遣わせないよう体調が悪いことをジョークにしていた[15]。 死去の際にライバルの富士櫻は1975年5月場所中日の天覧相撲の思い出を「本当に悔しかったですけど、自分の相撲を取り切ったという自負もあって、満足感の方が強かった。後でテレビを見ていたら、陛下も手を叩いてお喜びになっていました。いい思い出をありがとうと伝えたいです」と語った[16]。また、富士櫻が定年を前にした大相撲中継で幕内の取り組みの正面解説を務めた時には、麒麟児が向正面の解説者として出演し、上記の取り組みなどを踏まえて思い出を語り、労を労っている。 人物・エピソードいわゆる「花のニッパチ組」の一人として長く土俵を沸かせた「華のある力士」だった[7]。力士の多くが土俵上では感情を表さないことを美徳としていた当時、惜敗して土俵に這うと、拳を土俵に叩きつけて悔しがる様子を見せていた。 現役時代より柔和で人柄が良いことで知られており、懇意にしていた近所の女性からは弟のようにかわいがられていたという。それに関して、その女性から幕内定着以降暫く小遣いを渡されることがあったがその度に好意を無駄にしないために有難く受け取ったというエピソードが存在している。 力士のテレビCM出演が盛んに行われた頃、四股名からの連想で、旭國とともにサントリービールのCMに出演した。 大正テレビ寄席の「マキシンのバーゲンセール」のコーナーで、オークションの結果、品物を競り落とし、登壇したことがある。 死去の際に弟弟子の大善は「親方(元麒麟児)は、いてくれるだけで周囲が明るくなる、太陽のような人でした」と語り[17]、現役時代の相撲ぶりを「絶対に引かない。突き押しの最高傑作」と評した[15]。 麒麟児は「僕は親方[18]のおかげで漢字をたくさん覚えられたんです」と話したことがある。自身の四股名「麒麟児」は大人にとってすらも難筆・難読であり子供から「キリン(麒麟)なのに、なんで背が低いの」などと聞かれることから最初好きではなかったという[19]。 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
年寄変遷
CM出演関連項目脚注
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