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遠山奬志

遠山 獎志(遠山 昭治)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県葦北郡田浦町(現:芦北町
生年月日 (1967-07-21) 1967年7月21日(57歳)
身長
体重
178 cm
91 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 1986年4月27日
最終出場 2002年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

遠山 奬志(とおやま しょうじ、本名:遠山 昭治(読み同じ)、1967年7月21日 - )は、熊本県葦北郡田浦町(現芦北町)出身の元プロ野球選手投手外野手、左投左打)、野球指導者。

2002年の現役引退後は、阪神タイガースのコーチや野球解説者野球評論家浪速高等学校硬式野球部監督を歴任[1]

阪神投手時代の1999年から、登録名を「遠山 奬志」に変更。現役を引退してからも、2019年の途中に浪速高校硬式野球部のコーチへ就任するまで、この氏名表記を公の活動に用いていた。愛称は、「遠山の金さん」「遠山親方」「遠山桜」。

来歴

八代第一高等学校ではエースとして活躍。2年生だった1984年には秋季九州大会県予選で準々決勝に進むが、鎮西高完封負けを喫する。在学中に投手として対外試合で通算693、打者として打率.440、35本塁打を記録。また、ノーヒットノーランを11回達成した[2]

1985年のNPBドラフト会議において、この年に球団史上初の日本シリーズ制覇を達成した阪神タイガースから1位指名を受ける。清原和博の指名重複に伴う抽選で独占交渉権を逃した末の単独再指名であったが、推定年俸360万円という条件で入団した[3]。入団当初の背番号21

1986年には、一軍公式戦で先発ローテーションの一角を担いながら8勝をマーク[4]。この年のNPB全12球団の高卒新人投手としては最高の成績で、シーズン終了後には、推定年俸900万円という好条件で契約を更改した。昇給率は150%で、2013年藤浪晋太郎が200%で契約を更改するまで、阪神の高卒新人選手における最高記録であった[3]。また、阪神からのドラフト指名を経て入団1年目に一軍の公式戦で8勝を挙げた左投手は、社会人野球JR東日本硬式野球部)経由で2021年に入団した伊藤将司まで35年間現れなかった[5]

1987年に左肩を痛めてからは成績が低迷。1990年のシーズン終了後に、高橋慶彦との交換トレードによってロッテオリオンズへ移籍した。移籍後の背番号は16

ロッテでも慢性的な左肩痛で芳しい成績を残せなかったため、移籍3年目の1993年サイドスローに挑戦したが、1994年8月5日の対日本ハムファイターズ戦で4番手として登板し、左の強打者マット・ウィンタースに特大の17号3点本塁打を打たれるなど左キラーとしては機能できず、移籍5年目(プロ10年目)の1995年外野手へ転向[6]。背番号も49に変更したが、実際にはアメリカ合衆国への野球留学でマイナーリーグのA+級バイセイリア・オークスに所属していた。

1996年には、二軍イースタン・リーグ)公式戦の最終規定打席へ到達するとともに、最多安打を記録した。しかし、1997年には一軍公式戦への出場機会がなく、シーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。これに対して、現役続行を希望していた遠山は、古巣・阪神の入団テストを受験。当初は野手として参加していたが[4]、移籍前にも1987年まで一軍で監督を務めていた吉田義男からの要望でピッチングを披露したところ、西山和良編成部長と吉田の判断で投手としての古巣復帰に至った。復帰後の背番号は52で、後年のインタビューで「暫く、野手として活動していたおかげで、左肩の痛みがいつの間にか消えていた」と語っている[7][8]

1998年には、フォーム固め等でシーズンの大半を二軍での投球練習とウエスタン・リーグ公式戦への登板に費やすと、シーズン終盤に一軍公式戦11試合に登板した。シーズン終了後に阪神の戦力外通告候補リストに挙がっていたが、新監督の野村克也が「左投手が必要」と球団側を説得し、翌年の活躍へと繋がる。

1999年に登録名を「遠山 奬志」に変更とともに、吉田の後任として監督に就任した野村の勧めで、投球フォームオーバースローから再びサイドスローに変更した。これを機にシュートの投げ方を新たに習得したところ、主に左打者へのワンポイントリリーフで活躍。同年の63試合登板は自己最多記録である。特にいずれも読売ジャイアンツ(巨人)の左打者であった松井秀喜高橋由伸に強く、松井を通算で13打数無安打に抑えたことから、「(松井の愛称である)ゴジラキラー」「野村再生工場の成功例」と呼ばれた[4]。これは当時の投手コーチにロッテ時代に監督だった八木沢荘六がいたことも良かったとも話している[4]。なお、松井は当時「(遠山の)顔も見たくない」とのコメントを残したばかりか[4]2003年MLBニューヨーク・ヤンキースへ移籍してからも「(遠山に)打ち取られる夢を見た」と述べていた。

2000年には、現役生活で唯一のオールスターゲーム選出を果たした(出場を予定していた佐々岡真司が故障で辞退したことに伴う補充)。

2001年ごろから座骨神経痛のような症状に見舞われる。オフに野村に代わって星野仙一が監督へ就任。

2002年には、満足に投球できなくなるまで腰の状態が悪化した。当時星野が推し進めていた「チーム内の世代交代」の一環として、2002年のシーズン終盤に戦力外通告を受けたことを機に、現役からの引退を表明。現役最後の実戦登板は、チームのシーズン最終戦であった10月14日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)で、9回裏2死無走者からの登板で渡邉博幸から三振を奪うと、星野に肩を抱かれながらマウンドを後にした。

現役引退後の2003年から2004年までは、毎日放送 (MBS) ・GAORA野球解説者や、『サンケイスポーツ』(大阪本社)の野球評論家として活動の傍ら、プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズで投手として登板することもあった。

2005年に、二軍投手コーチとして阪神に復帰。

2006年から育成コーチ(2010年のみ「二軍育成コーチ」)を務めていた。

2011年11月1日付でコーチを退任した[9]

2012年からMBSの野球解説者に復帰。

2015年からは『東京スポーツ』の専属評論家としても活動していた[10]2014年には、阪神のOBとして、11月16日Koboスタジアム宮城で開かれた「東日本大震災復興支援 巨人―阪神OB戦」に出場[11][12]。2回裏2死1・3塁の場面で松井と対戦したところ、二塁打を許している[11]

その一方で、学生野球資格回復研修制度を通じて、2014年3月4日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定[13]。同協会に加盟する高校・大学の野球部での指導が可能になったため、解説・評論活動と並行しながら、浪速高等学校硬式野球部の部員に随時アドバイスを送っていた[14]

2019年の途中までは解説・評論活動を続けていたが、同年6月から浪速高等学校硬式野球部のコーチに就任。前任の監督が退任したことを受けての就任で、「理事長付委託コーチ」という肩書での指導を経て、同年11月1日付で監督に就任した[14]。なお、同部のコーチに就任してからは、本名の「遠山 昭治」名義で活動。また、監督への就任を機に、同校の入試広報部へ職員(参与)として勤務していた[15]。就任後は新型コロナウイルス感染による練習の制限や、公立学校のレベルアップなどもあり、5年間で結果を残すことができず、2024年限りで退任することになった。退任後については未定[16]

人物・エピソード

1985年のドラフト会議では読売ジャイアンツ広島東洋カープからも熱心に誘われたが、「阪神以外なら社会人(本田技研熊本)へ進みます」と11球団に伝え、阪神入団に漕ぎ付けた[17][18]

1999年5月22日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)で勝利投手となったが、これはロッテ移籍前以来10年ぶりの勝利投手だった。10年のブランクは当時史上最長間隔で、2010年に大家友和が日本球界で16年振りの勝利を挙げたことで大幅に更新した[注釈 1]

絶対的守護神が不在のチーム事情と野手経験があることから、継投の際には一塁手を務めることもあった。2000年には右投げサイドスローの葛西稔と共に、相手打者の左右によって交互に「遠山、葛西、遠山、葛西…」と一塁と投手を交代し合って登板する継投がしばしば見られた。葛西も高校時代に一塁手の経験があり、「遠山・葛西スペシャル」として野村克也の必殺技と言われた[19]。ただし遠山は後年、「つらかった」と述べており、「投手にしてみれば情けないと言いますか…やっぱり嫌ですよね。(左投手だが)『右打者でも抑えられる』という信頼が無かったということですから」「同じグラウンドにいるから気持ちは切れないですが、一塁を守った後に前の打席と同じ球を投げられるかどうかは疑問」と語っており[20]、あまり乗り気では無かったようである。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1986 阪神 27 24 3 2 0 8 5 0 -- .615 549 128.0 135 14 34 3 3 73 0 1 64 60 4.22 1.32
1987 9 4 0 0 0 0 3 0 -- .000 100 22.2 30 6 5 0 0 9 0 0 17 15 5.96 1.54
1988 42 8 0 0 0 2 9 0 -- .182 339 79.2 81 6 34 3 0 48 2 0 36 34 3.84 1.44
1989 10 3 0 0 0 2 1 0 -- .667 125 28.1 37 2 7 1 0 16 1 0 15 14 4.45 1.55
1990 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 46 9.0 12 1 8 0 0 8 0 0 10 9 9.00 2.22
1991 ロッテ 10 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 91 16.2 27 8 14 0 1 11 1 0 18 17 9.18 2.46
1992 29 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 77 17.1 17 1 7 0 1 14 1 0 9 6 3.12 1.38
1993 25 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 66 15.2 22 4 2 0 1 7 0 0 10 9 5.17 1.53
1994 31 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 108 25.1 26 5 6 1 3 13 0 0 14 11 3.91 1.26
1998 阪神 11 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 51 10.2 19 1 4 0 0 4 0 0 9 9 7.59 2.16
1999 63 0 0 0 0 2 1 1 -- .667 204 51.2 39 4 14 3 2 35 0 0 15 12 2.09 1.03
2000 54 0 0 0 0 2 0 3 -- 1.000 145 35.1 29 2 11 2 1 20 0 0 10 10 2.55 1.13
2001 52 0 0 0 0 0 1 1 -- .000 133 27.2 33 3 17 2 2 17 1 0 17 15 4.88 1.81
2002 23 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 63 12.1 21 2 4 0 1 8 1 1 13 13 9.49 2.03
通算:14年 393 41 3 2 0 16 22 5 -- .421 2097 480.1 528 59 167 15 15 283 7 2 257 234 4.38 1.45

年度別打撃成績

















































O
P
S
1986 阪神 27 45 40 4 7 0 0 0 7 1 0 0 4 0 1 0 0 12 0 .175 .195 .175 .370
1987 9 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1988 43 17 15 0 1 0 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0 0 3 0 .067 .067 .067 .133
1989 10 9 8 0 2 1 0 0 3 0 0 0 1 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .375 .625
1990 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1991 ロッテ 12 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1992 29 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1993 25 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1994 31 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1995 9 14 12 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .167 .286 .167 .452
1996 3 4 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .250 .500
1998 阪神 11 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1999 63 3 3 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
2000 54 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
2001 52 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2002 23 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:16年 408 101 90 4 14 1 0 0 15 1 0 0 8 0 3 0 0 25 0 .156 .183 .167 .349

年度別守備成績





投手 一塁 外野




































1986 阪神 27 4 26 3 0 .909 - -
1987 9 0 5 0 0 1.000 - -
1988 42 1 16 0 0 1.000 - -
1989 10 1 5 0 0 1.000 - -
1990 7 1 3 0 0 1.000 - -
1991 ロッテ 10 2 6 0 1 1.000 - -
1992 29 1 5 0 0 1.000 - -
1993 25 2 2 0 1 1.000 - -
1994 31 1 13 0 2 1.000 - -
1995 - - 2 1 0 0 0 1.000
1996 - 1 3 0 0 0 1.000 -
1998 阪神 11 1 3 0 0 1.000 - -
1999 63 8 12 0 2 1.000 1 0 0 0 0 .000 -
2000 54 3 7 0 1 1.000 7 5 2 0 1 1.000 -
2001 52 1 3 0 0 1.000 1 2 0 0 0 1.000 -
2002 23 1 3 0 0 1.000 - -
通算 393 27 109 3 7 .978 10 10 2 0 1 1.000 2 1 0 0 0 1.000

表彰

記録

投手記録
打者記録
その他の記録

背番号

  • 21 (1986年 - 1990年)
  • 16 (1991年 - 1994年)
  • 49 (1995年 - 1997年)
  • 52 (1998年 - 2002年)
  • 75 (2005年 - 2009年)
  • 95 (2010年 - 2011年)

登録名

  • 遠山 昭治 (とおやま しょうじ、1986年 - 1998年)
  • 遠山 奬志 (とおやま しょうじ、1999年 - )

登場曲

関連情報

野球解説者時代の出演番組

※特記のない限りプロ野球中継

放送上のキャッチフレーズは、「トラの桜吹雪」。中継タイトルが『MBSタイガースナイター』だった2003年・2004年にも、「トラ番ゲスト」(本数契約のゲスト解説者)として出演していた。
2015・2016年度以降のナイターオフ期間には、『with Tigers MBSベースボールパーク みんなでホームイン!』の金曜日にレギュラーで出演。現役時代からの愛称にちなんだ「野球奉行☆遠山の金さん」というレギュラーコーナーを持っていた。
MBSの野球解説者に復帰した2012年度に、コメンテーターとして水曜日にレギュラー出演。同年から番組内で結成された「ちちんぷいぷい運動部」のメンバー(野球担当)でもあった。2013年度に不定期で出演した後に、2014年度に月・木曜日でレギュラー出演を再開。2015年から不定期での出演に戻ったが、「遠山親方」という肩書で、野球関連以外の中継・ロケ企画に登場することもあった。
2016年のリオ・デ・ジャネイロオリンピック期間中には、山中真(MBSアナウンサー)・廣田遥(元トランポリン選手、当時のレギュラー出演者)と共に、リポーターとして現地に派遣。周辺取材や、生中継・VTRによるリポートを担当した。
体重が99kgにまで達していた2017年1月からは、現役時代のベスト体重(85kg)へ戻すべく、ライザップとの共同企画でダイエットに挑戦。同年4月までの3ヶ月間に体重を14kg、体脂肪率を9%減らした[23]。同年5月6日の阪神対広島戦「ファーストピッチセレモニー」では、番組略称の英字ロゴ(Puipui)を入れた赤い縦縞のユニフォーム姿で、現役引退から14年振りに甲子園球場の公式戦でピッチングを披露している[24]
2015年4月25日(土曜日)、MBSテレビと同系列の中国放送(RCC)制作の地上波中継『広島銀行プレゼンツ RCCカープデーゲーム中継』との同時放送(MBSテレビでも一部時間帯で同時ネット。MBSテレビとJ SPORTSは冠提供なし)[25]に出演(解説:山崎隆造・遠山、実況:一柳信行〔RCC〕、リポーター:石田充〔RCC〕・金山泉〔MBS〕)。

脚注

注釈

  1. ^ 大家は16年の間にメジャーリーグで51勝を挙げている。その後、NPBの球団のみに所属した選手でも2013年阿部健太に記録を抜かれている。

出典

  1. ^ 元阪神の遠山氏が監督就任、浪速が夏の甲子園目指す
  2. ^ KKコンビの「外れ1位」遠山奬志が語る1985年のドラフト
  3. ^ a b “【藤浪トーク】金額?新聞社さんの腕の見せどころ”. サンケイスポーツ. (2013年12月14日). https://www.sanspo.com/article/20131204-2NHPKZPJIBIUXA7S4WXCXNCXXA/2/ 2019年12月16日閲覧。 
  4. ^ a b c d e 戦力外から“ゴジラキラー”に 野村再生工場で復活…高校指揮官が明かす松井氏への感謝 Full-Count 2022年11月28日閲覧
  5. ^ “阪神・伊藤将 35年ぶり球団新人左腕8勝「遠山さんの成績に並べたということは本当に良かった」”. スポーツニッポン. (2021年10月2日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/10/02/kiji/20211002s00001173046000c.html 2021年10月2日閲覧。 
  6. ^ 中日・根尾が投手に挑戦 過去に成功した“転向組”は遠山、萩原、嘉勢ら”. デイリースポーツ online (2022年6月15日). 2022年6月15日閲覧。
  7. ^ 猛虎人国記(50)~熊本県 まさかの投手再転向で復活した遠山
  8. ^ 戦力外から2億円プレーヤーへ――リストラをバネに這い上がった男たち
  9. ^ 来季のコーチ契約について”. 阪神タイガース (2011年11月1日). 2011年11月1日閲覧。
  10. ^ 東京スポーツ 2015年3月7日付20面参照
  11. ^ a b “ゴジラ健在!松井氏が巨人-阪神OB戦で4安打1打点”. 東京スポーツ. (2014年11月16日). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/98381 2014年12月7日閲覧。 
  12. ^ “松井氏 12年ぶり巨人「55」で4の4!“大嫌い”遠山打ちで打点も”. スポーツニッポン. (2014年11月16日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/17/kiji/K20141117009297900.html 2014年12月7日閲覧。 
  13. ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者”. 日本学生野球協会 (2019年10月18日). 2019年11月9日閲覧。
  14. ^ a b “元阪神の遠山奬志氏 浪速高監督に就任“松井キラー”解説者を経て異例の転身”. スポーツニッポン. (2019年11月9日). https://www.daily.co.jp/baseball/2019/11/09/0012862021.shtml 2019年11月9日閲覧。 
  15. ^ “硬式野球部新監督決定・・・その名は「遠山昭治」氏”. 浪速高等学校. (2019年11月1日). https://naniwagakuin.blogspot.com/2019/11/blog-post_1.html 2019年11月9日閲覧。 
  16. ^ “元阪神の浪速・遠山昭治監督が退任 再建託されるも5年間で結果残せず、後任に井上雅文氏”. デイリースポーツ. (2024年11月26日). https://www.daily.co.jp/baseball/2024/11/26/0018381354.shtml 2024年11月26日閲覧。 
  17. ^ 【昭和野球列伝】阪神・遠山、昭和61年虎のアンチGルーキー
  18. ^ ドラフト1位遠山、吉田監督は”ケチなひと”!? (水本義政)
  19. ^ 大阪ニッカンスポーツ[1]2000年5月
  20. ^ 「日本プロ野球トレード大鑑2004」(ベースボールマガジン社)p72~73 本人へのインタビューより引用。
  21. ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ 2017年9月8日閲覧。 
  22. ^ 月刊タイガース2000年5月号p45
  23. ^ 挑戦の前後にピッチングの球速やベースランニングのタイムを計測したところ、ピッチングでは最速85km/hから94km/h、ベースランニングではタイムが20秒25から18秒02まで向上。
  24. ^ 松井キラー”遠山奨志氏が甲子園で始球式「気持ちよかった」(『東京スポーツ2017年5月6日付記事)
  25. ^ 通常この対戦はMBSとRCCでメイン映像を共有しての別制作となることが多いが(広島主催時はMBSが乗り込み、阪神主催時はRCCが自社のスタジオからオフチューブで実況)、この時は諸事情によりMBSが別制作せず遠山とリポーターの金山をRCCに派遣の上同時ネットとする形となった。

関連項目

外部リンク

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