身延線
身延線(みのぶせん)は、静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅を結ぶ東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。 概要駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通り、本流を渡ることはない。北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多い。また中京地方以西と山梨県を行き来するには最も利用しやすい鉄道ルートで、静岡駅で東海道新幹線と接続する特急「ふじかわ」が運転され長距離輸送も担う。一帯は日蓮ゆかりの地であり、沿線には日蓮宗総本山久遠寺、日蓮正宗総本山大石寺などが立地している。 富士駅 - 西富士宮駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている。2025年秋には鰍沢口駅 - 甲府駅間でも「TOICA」導入が予定されている[4]。 2027年開業予定の超電導リニアによる中央新幹線と交わる地点に接続駅を設ける計画があった。2011年6月に発表された位置案では山梨県内国中地方峡中地域に設置されることが明確となり、中央市にある小井川駅、東花輪駅および昭和町にある常永駅が範囲となっていた[5]。 しかし、2013年9月に発表された中間駅のうち山梨県駅の位置は甲府市大津町となり[6]、身延線や中央本線とは接続せずにバスで連絡することとなった。 路線データ
甲府駅構内除き全線をJR東海静岡支社が管轄。 沿線概況
線形は25‰[3]の勾配と半径200mの急曲線が連続し、中間の山岳区間では特急でも表定速度が50km/h 程度に落ちる。さらに、列車交換待ちや長時間停車することがあり、88.4kmの全線でも、所要時間は2時間半から3時間半程度かかる。これは、6.5km短い木次線と比較すると、ほぼ同じか少し長い。また、旧富士身延鉄道として建設された当時、狭小トンネルのままで電化されており、以来拡張工事などが行われていないことから、入線できる車両には車高制限がある(詳細は後述)。このためJR東海の全ての車両設計では、当路線よりも車両限界の小さな予讃線(JR四国)を運転する285系を除き、最狭隘となる身延線の車両限界を勘案することになっている。 2008年から、富士宮市の富士宮駅の西側700mの区間で高架化工事が行われた。この区間は路線と静岡県道414号(旧国道139号)が並走しており、県道や市道などの道路が踏切を越えるとすぐに県道414号との交差点に差し掛かり、踏切と交差点の信号機によって慢性的な渋滞が発生しており、これを解消するためである。高架化にはプレキャストアーチ構造高架橋という工法が採用され、日本で初めての施工となる[8]。高架は2012年に完成した[9]。 山梨県内では富士川の左岸を走り、右岸を国道52号が併走する。また、全線に渡り並行する形で中部横断自動車道が2021年までに開通しており、鰍沢口駅付近から南部町内までの区間は身延線と近接している。 久遠寺の玄関口である身延駅は1999年に関東の駅百選に選定された[注 1]。 末端の善光寺駅西側から甲府駅にかけては中央本線と並行して走る。そのため、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代は、ほかの区間が静岡鉄道管理局管内であったのに対し、同区間は東京西鉄道管理局の管内であった。国鉄分割民営化に際してはJR東海とJR東日本の会社境界が金手・甲府駅間にある甲府駅第一場内信号機付近に設定された。
運行形態優等列車特急「ふじかわ」が甲府駅 - 富士駅 - 静岡駅間で7往復運転している。富士駅 - 富士宮駅間・身延駅 - 市川大門駅間・市川大門駅 - 甲府駅間など身延線区間において、自由席特急料金は30km以内の区間では330円、50km以内では660円と廉価で設定されており、主要駅を利用している乗降客にとっては、特急「ふじかわ」そのものが数少ない普通列車の補完的な役割あるいは有料の快速としての役割を果たしている。 普通列車2両または3両の短編成で運転されるが、富士駅 - 西富士宮駅間では、4両編成の列車も2往復運転されている。富士駅 - 西富士宮駅間と鰍沢口駅 - 甲府駅間の運転本数が多く、全線通しの普通列車は朝夕をのぞき1 - 2時間に1本程度である。過去には車両の入出区の関係で、下部温泉駅を発着する列車や、甲府発御殿場線御殿場行きも存在したが、2013年3月16日のダイヤ改正で廃止された。2両編成の列車でワンマン運転を実施しており、身延線の列車番号の末尾がGの列車は、313系電車で運用されているワンマン列車である。なお、2024年3月16日のダイヤ改正で、甲府駅 - 西富士宮駅では朝晩の3両編成の列車を除き2両編成の列車は全てワンマン運転になった。 かつては115系や、1両編成で123系電車が運用されていた[注 2]が、これらは2007年3月にすべて313系に置き換えられた。 各区間の普通列車の運転間隔は以下のようになっている。
甲府駅では身延線に向けて出発可能な中央本線の線路は中線(1番線と2番線の間)と上り1番線(のりば番号としては3番線)のみで、現在両線を直通する定期列車はない。国鉄時代には身延線の車両は中央本線の車両とともに甲府駅西寄りの留置線を使用していたが、国鉄分割民営化後、甲府駅の資産はJR東日本の所有になったため留置線はJR東日本の車両のみ留置されるようになり、身延線の車両は貨物輸送の衰退で余裕が生まれた南甲府駅の側線、また一部は鰍沢口駅へ回送して留置している。ダイヤが乱れた際には東花輪駅の側線にも留置していることがある。 日中(10時台-15時台)の区間別の1時間あたりの運行本数は以下のようになる。
臨時列車臨時優等列車1972年から1986年まで新宿駅 - 身延駅間に臨時急行列車「みのぶ」が運転されており、唯一の中央本線との直通列車であった。車両は中央本線急行用の165系(松本電車区所属)4両編成で、新宿駅 - 甲府駅間は時期により季節急行「たてしな」または急行「アルプス」と併結していた。また、この列車の線内停車駅は1978年(昭和53年)10月(ゴーサントオ)改正時点で甲府駅、南甲府駅、東花輪駅、市川本町駅、鰍沢口駅、甲斐岩間駅、甲斐常葉駅、下部駅(現・下部温泉駅)、身延駅であった。なお、この時点での急行「富士川」の甲府駅 - 身延駅間の停車駅は前記停車駅のうち東花輪駅は一部列車が停車、甲斐常葉駅は通過していた。 2000年代の春季の土曜休日には臨時特急「しだれ桜」が静岡駅 - 身延駅間に1往復運転されていた。2004年には初めて鰍沢口駅まで延長運転が行われている。また、2008年頃から春季や秋季の観光シーズンに合わせ土曜休日に臨時特急・急行列車が設定されている。その他さわやかウォーキングに合わせ373系を使用した臨時快速列車が設定されることもある。 宗教臨年に数回の頻度で、日蓮正宗法華講連合会による金沢方面からの団体臨時列車が、東海道本線を経由して富士宮駅まで運転される。使用車両は183系・189系、485系・489系、681系・683系などで、富士宮駅では団体専用の1番線に停車する。このほか、数年に一度、長野方面からも団体臨時列車が身延線に入線することがある。 富士駅側では、かつて日蓮正宗の在家信徒団体であった創価学会関連の団体臨時列車(いわゆる「創臨」)が、日蓮正宗の総本山である大石寺(富士宮市)への参拝を目的に各地から富士宮駅に多数発着していた。そのため富士駅 - 富士宮駅間が複線化され、西富士宮駅手前まで大規模な引き上げ線を設置するなどしていたが、1991年に日蓮正宗が創価学会を破門すると、臨時列車の運行が宗門側の日蓮正宗法華講連合会によるものだけとなり、貸切バスで直接大石寺に乗り入れる団体も増加したことから、本数も大幅に減少した。広大な引き上げ線も廃止され、2008年から2012年にかけて行われた線路の高架化事業に伴い、これまで本線側と完全に切断されて残っていた線路は完全に撤去された。 花火臨毎年8月7日、市川三郷町で開催される神明の花火大会に際して甲府駅(もしくは富士駅) - 市川大門駅・鰍沢口駅間に多数の臨時普通電車が運転され、通常は見られない313系2両+2両の4両編成も用いられる。8月15日に南部町で開催される南部の火祭りも富士駅 - 身延駅間で臨時普通電車が設定されている。 貨物列車2001年3月31日をもって、全区間における貨物輸送は廃止された。以前は「工臨」(工事用臨時列車)として、静岡運転所所属の電気機関車EF64形2号機とレール運搬用のチキ5500形で編成される列車が運用されていたが、2008年4月より運用を開始した、名古屋車両区所属の事業用気動車キヤ97系によって置き換えられた。また、この置き換えにより、JR東海所属の電気機関車は消滅している。 使用車両身延線は前身の富士身延鉄道時代に作られた区間のトンネル断面および建築限界が小さく、車両限界は狭小トンネルで知られる中央本線などを含め、ほかのJR線よりもさらに小さい。そのため、富士身延鉄道時代の電車や国有化後に投入された62系電車は、一般的な電車よりも屋根を低くしていたが、後年、他線区から転用された電車については、屋根構造はそのままで折りたたみ高さの低いPS13形パンタグラフに換装したり、車輪のタイヤが薄い車両を選んだりするなどして使用されていた。しかし、1950年(昭和25年)8月24日に発生した車両全焼事故(「身延線列車火災事故」を参照)により、架線とパンタグラフの間の絶縁距離が過小であることが判明し、戦前に投入されていた車両よりもさらに屋根を300mmあまり低く改造した「低屋根車」が登場した。その後、パンタグラフ取り付け部を低屋根化しなくても、狭小トンネルが通過可能なPS23形パンタグラフが開発されたが、身延線ではこれをもってしてもなお不十分であり、パンタグラフ取り付け部の屋根を20mm切り下げる対策が必要であった(モハ114形2600番台、クモヤ145形600番台など)。 国鉄分割民営化後にJR東海が導入したクモハ211形5600番台やクモハ311形も身延線への入線を考慮した設計となっている。その後の折り畳み高さの低いシングルアーム型パンタグラフの開発により、1995年(平成7年)に製作された373系電車以降は、屋根高さの制限は緩和されたものの、身延線に関わる車両限界が、そのままJR東海の車両限界を規定している状況に変化はない。JR東日本の車両は車両番号横に「◆」マークが描かれている車両なら乗り入れ可能である。 皇族の乗車には、373系電車に代わり、383系電車を神領車両区から借りて使用する。内閣総理大臣などの場合は「ふじかわ」の指定席車を使用する。なお、2001年の第52回全国植樹祭に関連して甲斐岩間→甲府間にお召し列車が運転された際にはキハ85系気動車3両が使用された。 現在の車両
過去の車両
→富士身延鉄道の車両については「富士身延鉄道の電車」を参照
2007年3月17日までは115系・123系電車も運用されていた。いずれも全線で運用されていたが、1999年12月4日のダイヤ改正以降、123系は富士駅 - 身延駅間の運用とされていた[11] [12]。123系はワンマン運転対応であった。特急格上げ前の急行「富士川」には、165系(中間車には153系を含む)電車が使用されており、甲府駅 - 静岡駅・三島駅間で運用されていた。 旧形電車時代は、30系、31系、32系、40系、42系、50系、51系や62系(初代・2代目)などが使用されていたが、72系の台枠に115系同様の車体を載せたアコモ改造車である62系(2代目)を除き1981年(昭和56年)に115系により置き換えられた。 また、急行「富士川」、準急「白糸」(1968年に「富士川」に統合)には1972年(昭和47年)まで80系が使用されていた。 1984年(昭和59年)には残っていた62系(2代目)も運用離脱し、当線は完全に新性能化された。 1981年(昭和56年)の115系投入直前まで使用された旧性能電車は以下の通りである。
歴史
身延線の前身は、堀内良平(富士急行創業者)が計画・立案した私鉄の富士身延鉄道である[2][14]。江戸時代まで甲駿間は富士川沿いの富士川舟運による物流が盛んで、明治中期には最盛期を迎えていた。そのため、中央本線の計画に際しては岩淵から富士川沿いに北上し、市川大門を経て甲府へ至る岩淵線ルートが構想されていたが、中央線は八王子線のルートが採用され、1903年(明治36年)に甲府まで開通した。中央線の開通により舟運の相対的地位は低下するが、甲駿間を結ぶ鉄道路線の計画は1895年(明治28年)に東京在住の資本家を中心とする駿甲鉄道敷設計画として存続し、舟運関係者からは反対されるが山梨・静岡の支持者や若尾民造らの支援者を得る。 駿甲鉄道計画も資本金不足などにより挫折するが、1911年(明治44年)には小野金六、根津嘉一郎や甲州財閥系の資本家による富士身延鉄道と、身延参詣者の輸送を目的とした身延軽便鉄道(甲駿軽便鉄道)の計画が同時に持ち上がる。富士身延鉄道は、大宮町から分岐し、富士川左岸沿いに富士 - 甲府間を結ぶ計画で、身延軽便鉄道は興津から分岐し富士川右岸を万沢・南部から身延まで至る計画であった。両者の甲駿鉄道計画は最終的に後者が却下されることにより富士身延鉄道計画が採用され、東海道線の鈴川(現在の吉原駅)から大宮(現在の富士宮駅)までの馬車鉄道を運営していた富士鉄道を買収し、1913年(大正2年)に富士駅 - 大宮町駅間が蒸気鉄道として開業した。以後、順次延伸され、1920年(大正9年)5月18日に身延まで開通した。 富士身延鉄道は富士駅 - 身延駅間を開業させるが経営状況は芳しくなく、末期には運賃が日本一高いといわれるほどにもなった。そのため沿線から国営化を望む声が挙がり、身延以北は政府による建設が決まった。しかし関東大震災の影響で不可能となり、結局国有鉄道の規格に準じることを条件に富士身延鉄道が建設することとなり、1928年(昭和3年)に甲府駅まで全通した。この建設には習志野の陸軍鉄道連隊が関与したといわれる。 全線開通の10年後となる1938年(昭和13年)には路線が鉄道省(のちの国鉄)に借り上げられ、1941年(昭和16年)には国有化された。この際富士身延鉄道が所有していた身延橋や下部ホテルは経営分離され、前者は山梨県道に、後者は陸軍病院の療養所になった(下部ホテルは戦後独立したホテル業に復帰)。なお身延線の買収は戦時買収ではないが、予算捻出のため「戦時買収的な名目」で買収されている。 1964年(昭和39年)3月、身延線初の優等列車として富士駅 - 甲府駅間に準急「富士川」2往復の運転が開始された。同年10月に東海道新幹線が開通すると接続のため1往復が静岡駅まで運転区間を延長し、1966年(昭和41年)3月には一部が急行列車となった。準急として残った1往復は「白糸」と改称したが、1968年(昭和43年)10月に静岡駅まで延長されて急行となり「富士川」に統合された。 1969年(昭和44年)にそれまで全線単線であった身延線の富士駅 - 富士宮駅間の複線化工事にあわせて、富士駅 - 入山瀬駅間[注 4]の路線付け替えおよび高架化が行われ、同時に本市場駅(柚木駅に改称)・竪堀駅も移設された。これは、1960年(昭和35年)頃から当時創価学会と関係のあった(1991年〈平成3年〉に断絶)日蓮正宗の総本山である大石寺参詣のための団体列車が急増しており、その輸送力増強と、本市場駅付近を通っていた国道1号(現在の県道396号線)との踏切の渋滞が深刻化していたためである。移設後は富士駅から東京側で分岐していたのを静岡側で分岐するように改め、首都圏方面からの団体列車がスイッチバックせずに直通できるように配線が変更され、また高架化されたことで国道1号線の渋滞も緩和された。富士駅 - 富士宮駅間の複線化は1974年(昭和49年)に完成した。旧線部分の約2km(本市場駅付近から現在線路との合流地点まで)は富士緑道として遊歩道化されている。 1980年(昭和55年)代後半頃から利用者が減りはじめ、1両編成車両(123系)の導入や、ワンマン運転の実施、駅の営業縮小(富士宮駅縮小や、夜間および早朝の無人化など)など路線維持費の削減が進められた。 年表富士身延鉄道
国鉄借上げ以後
民営化以後
駅一覧
過去の接続路線脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
|