華厳寺
華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。西国三十三所の満願霊場(第33番札所)である[1]。 概要山号は谷汲山(たにぐみさん)[1]。本尊は十一面観世音菩薩。脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。桜や紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。 本尊真言・ご詠歌本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか ご詠歌(現世「本堂」):世を照らす仏のしるしありければ まだともしびも消えぬなりけり ご詠歌(過去世「満願堂」):万世(よろずよ)の願いをここに納めおく 水は苔より出る谷汲 ご詠歌(未来世「笈摺堂」):今までは親と頼みし笈摺を 脱ぎて納むる美濃の谷汲 歴史永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津の郡司で黒河郷(現在の福島県会津若松市)の大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現在の岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。 延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。 西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、および三首のご詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」および「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種のご詠歌のうち「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[2]。 承久3年(1221年)の承久の乱では、朝廷側に属したため寺領を没収された。 建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田一族の堀口貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。 文明11年(1479年)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により、再興されたと伝えられている。 境内総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。そこからはゆるやかな登りの石畳の参道となり、突き当りの石段を上ると本堂がある。本堂背後には阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂、そこからさらに石段を上った先に満願堂が建つ。このほか、満願堂から徒歩約1時間ほどのところに奥の院がある。1980年代まで本堂周辺にはトロッコの線路が多数残されていた。 境内一覧
文化財重要文化財
西国霊場第三十三番札打和讃三十三番の打ち留は 今日の今まで親よりも 頼みにかけし笈摺を ぬぎて納むる霊場は みの行末の大野なる 谷くみ山に名も高き 法の蓮のけごん寺 仰ぎ見るにも尊とけれ 南無や大慈の観世音 南無や大悲の観世音 マスコットキャラクター谷汲山華厳寺門前町の「谷汲門前街並みづくり協議会」によってマスコットキャラクター「いのりちゃん」が制定されている。マスコットキャラクターとしては初めて三十三所の満願を達成した。この功績は三十三所札所会に認められ、「西国三十三所PR大使」「補西国巡礼大使」に任命、また特命先達にも任命された。 前後の札所
交通アクセス鉄道・バス※ いずれも季節運行便があり、季節運行便が運行されない日は朝夕のみとなり事実上利用できない。 自動車その他2001年(平成13年)までは名鉄谷汲線が近くまで伸びていて谷汲山華厳寺の巡礼客の交通の便となっていた。 毎月18日のみ岐阜駅・名鉄岐阜駅より岐阜バス【C49】「谷汲山」行きが1往復のみ運行される。 脚注注釈出典
参考文献
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