片瀬 (藤沢市)
片瀬(かたせ)とは、神奈川県藤沢市の南東部を指す地名である。1889年まで片瀬村と呼ばれていた大字としての片瀬、または1947年までは鎌倉郡に属していた片瀬町で現在は藤沢市の13ある行政地区のひとつとして片瀬市民センターが行政を分担している片瀬地区、あるいは片瀬地区の中の中心部をなす住居表示上の呼称としての片瀬という範囲の異なる3つの概念が並行して用いられている。 片瀬地区のうち江の島は、別項で詳述されているため、本項では片瀬地区のうち原則として江の島を除く範囲、すなわち旧大字の片瀬について述べる。 片瀬地区の郷土文化・伝統玩具として、片瀬こま(通称・喧嘩コマ)が有名。 地理位置と範囲旧大字の片瀬は、近世以来の片瀬村の範囲とほぼ重なる。片瀬川(古くは固瀬川)と呼ばれる境川下流部以東の地域で、鎌倉郡に属していた。現在の片瀬海岸三丁目と鵠沼海岸一丁目との境界線は、道路に沿った人為境界線に見えるが、江戸時代後期の絵地図を見ると、この位置に片瀬川が流れており、引地川は海岸砂丘に阻まれて、直接海に出ず、片瀬川河口近くに流入する支流として描かれているものがある。北西部の高座郡鵠沼村との境界線は、現在の流路より西側に大きく屈曲している部分が見られ、1965年(昭和40年)の住居表示制定まで片瀬地区と鵠沼地区との境界線になっていた。この屈曲は片瀬川の曲流に基づく自然境界と思われる。北東部は地元で片瀬山と総称する丘陵の稜線で鎌倉郡村岡村と接し、南東部は鎌倉郡津村および腰越村と接したが、かなり不明確な人為境界線で、江戸時代には数度の境界線争いが記録されている。南西部は相模湾で、陸繋砂嘴により江島村と結ばれていた。現在の片瀬地区は、西を鵠沼地区、北東を村岡地区、南東を鎌倉市腰越地区と接する。 旧片瀬村と旧江島村との関係を整理すると、次のような経緯がある。
自然環境地形・地質片瀬地区の地形は、東部の丘陵と西部の低地に二分できる。
気候・植生南部ほど顕著な海洋性気候が見られる。気温の変化は冬の冷え込みが弱く、年較差が相対的に小さい。降水量は初秋の秋霖・台風期にピークがあり、梅雨期がこれに次ぐ。風向は年間を通して季節風よりも海陸風の影響が顕著である。丘陵の自然植生はオニシバリ-コナラ群集が多くを占めるほか、イノデ-タブノキ群集の自然林もみられる暖帯林。 社会環境河口港片瀬の地名は早くも奈良時代、正倉院に残る庸布墨書に「方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂,調庸布一端を朝廷に貢進」とあり、少なくとも50戸以上の郷戸主のいる集落が形成されていたことが判る。この集落は恐らく周辺の鵠沼・辻堂地区の集落と異なり、単なる半農半漁村ではなく、片瀬川河口という地の利を生かした河口港を擁し、港で働く人々が集住する集落だったことが想像される。これは、片瀬の集落名に「上町」「中町」「東リ町」「台町」といった町場を連想する人為地名が多く、集落形態も家々が密集する形が古地図からも読み取れるからである。境川本流は藤沢宿付近で瀬が現れ、高瀬舟でも航行が困難だったと思われるが、支流の柏尾川は本流よりも感潮河川区間が長く、深沢村から大船あたりまで航行できた。江戸時代の記録には年貢米の積み出し港として片瀬河岸の名があり、高瀬舟で集荷された川筋の積み荷がここで二百石船などの外洋船に積み換えられた。鉄道の時代になるとその役割は終わった。 商港としての片瀬は、とうの昔に消えたわけだが、現在も片瀬川河口にシラス漁などの漁船や貸切、乗合の釣船、プレジャーボートなど、おびただしい舟が見られる。プレジャーボートは河口から新屋敷橋付近まで両岸に不法係留されており、2003年(平成15年)4月、藤沢市はこれを暫定的に認めることになった。かつては片瀬江ノ島駅前で貸しボート屋も営業していた。2008年(平成20年)4月、片瀬漁港改修工事が完成し、市場設備を備えた本格的な漁港として、朝市や「漁師の学校」の開催など、市民との結びつきも図られている。 鎌倉の外縁源頼朝が鎌倉に入ると、その裏鬼門方向の「七里結界」の外側にあった腰越・片瀬は鎌倉の入口として、あるいは外縁としての位置づけが与えられた。典型的な例が処刑場である。治承4年(1180年)には大庭景親父子が片瀬河原で処刑され、鎌倉時代後半には龍口に刑場が設けられた。文永8年(1271年)9月12日には日蓮の龍口ノ法難の舞台になり、元の使者杜世忠らが処刑されたことでも知られる。鎌倉幕府滅亡後も龍口刑場は存続し、北条時行もここで処刑されている。 参詣観光地寿永元年(1182年)、源頼朝の祈願により文覚が江の島に弁才天を勧請して以来、鎌倉武士の信仰を集め、その後も歴代の為政者の保護を受けた。江戸時代に入ると歌舞音曲の関係者や視覚障害者をはじめ、庶民の参詣客が増え、関東総検校杉山和一により江の島道の道筋に多くの弁才天道標が寄進された。その数は全部で48基と伝えられ、うち藤沢市内に現存する12基は、市の文化財に指定されている。 陸繋島江の島へ繋がる陸繋砂嘴は「州鼻」と呼ばれ、そこを通る江の島道を「州鼻通り」という。その両側には、旅館や飲食店、土産物店、遊戯施設などが軒を連ねる門前町独特の景観が見られ、島内の参道と共に1987年(昭和62年)かながわのまちなみ100選に選定された。江戸時代末期、龍口寺が寺格を整えると、参詣者が増加し、門前に「かとや」(角屋)と「かしハや」(柏屋)などの旅館や菓子店が並ぶようになった。 海水浴場と湘南海岸公園安政5年(1858年)から1899年(明治32年)まで、横浜の外国人は、行動範囲を居留地から10里以内に制限されていた。その制限範囲内にあり、風光明媚で宿泊施設が整っていた片瀬や江の島には、明治初期以来多くの外国人が訪れるようになった。ヨーロッパ式の海水浴という風習は、日本では片瀬から始まった。(以下、詳細は片瀬東浜海水浴場参照)片瀬の海水浴場組合結成は、小田原急行鐵鉄道江ノ島線が開通した1949年(昭和24年)の6月のことであった。これは片瀬に海水浴場がなかったということではなく、むしろ鎌倉や大磯よりも古くからあったと考えるべきであろう。片瀬には東浜海岸に並行して州鼻通りに旅館街が形成され、しっかりした脱衣場が備えられていたからである。1891年(明治24年)、学習院が隅田川にあった游泳訓練場を川口村片瀬に移し、1904年(明治37年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、9棟)が翌年にかけて竣工し、3年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。しかし、1911年(明治44年)、学習院は游泳訓練場を片瀬から沼津御用邸の隣接地に再度移した。片瀬の海水浴場が一般客で混雑し、游泳訓練場に適さなくなったのが理由とされる。 1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震は、片瀬付近で1m近い地盤の隆起を伴い、砂浜の面積が拡がった。1928年(昭和3年)には神奈川県の手で湘南海岸一帯に砂防林の植樹がはじまり、翌年神奈川県知事に就任した山県治郎は湘南海岸一帯の国際観光地化を目論み、県営湘南水道、神奈川県道片瀬大磯線(通称「湘南遊歩道路」現国道134号)の敷設などが次々に具体化した。湘南遊歩道路は広い車道の両側の砂防林の中に歩道が設けられ、鵠沼から片瀬西浜には乗馬道もあるという画期的な観光道路であった。現在の江ノ電駐車場のところには乃木将軍の銅像(水谷鉄哉作)も建てられた。しかし、戦前の片瀬海岸の海水浴場はもっぱら東浜に限られ、西浜は別荘族が泳ぐ姿はあっても、地曳き網の漁場として存在した。 1947年(昭和22年)4月1日、鎌倉郡片瀬町は藤沢市へ編入合併された。このことにより、藤沢市は江の島を擁する観光都市に発展し、片瀬西浜と鵠沼を一体化して開発する基盤ができた。1954年(昭和29年)5月21日、神奈川県は「湘南海岸公園都市計画事業」を決定、「特許方式」という民間事業を導入した公立公園建設に着手した。手始めに同年7月1日、日活資本の「江の島水族館」が、日本における近代的私設水族館の第1号として誕生した。(以降の経緯は湘南海岸公園を参照)1956年(昭和31年)、片瀬西浜・鵠沼海水浴場を統合した「江の島海水浴場協同組合」が創立され、警備員は赤十字救急法救急員の資格を取得したライフセーバーとなり監視・救助活動を始めた。彼らは1963年に「湘南ライフガードクラブ」(現在名「西浜サーフライフセービングクラブ」)として組織化、日本初のライフガード組織として先進地のオーストラリアやハワイからノウハウを学び、活動するようになった。1959年(昭和34年)3月5日、藤沢市はビーチリゾートの先進地である米国のマイアミビーチ市と姉妹都市提携し、「東洋のマイアミビーチ」をうたい文句に観光客誘致を図る。 1964年(昭和39年)、江の島が東京オリンピックのヨット競技会場に選ばれたのを機に、自動車橋が島を結び、この前後は片瀬の海水浴場来客数は500万人を遙かに超え、日本一の海水浴場の名をほしいままにしていた。以後、大腸菌騒ぎなどもあってしばらく低迷していたが、2004年(平成16年)には450万人を突破し、日本一の海水浴場に返り咲いた。 別荘地から住宅地へ片瀬地区では、江戸時代から龍口寺門前や州鼻通りなどに旅館が営業していた。藤沢に鉄道が開通した1887年(明治20年)頃から江の島道沿いの寺院や民家で別荘用に貸家や貸間を提供する例が見られたようだが、砂丘や耕地の別荘地としての開発が始まるのは、江ノ電が開通する1902年(明治35年)頃からである。江ノ電は計画当初江の島道を路面電車として敷設する予定だったが、商売敵である人力車夫や、片瀬川の早船の関係者などの反対運動にあい、当時の大株主山本家の所有地を経由して建設したため、片瀬の集落から離れた水田地帯を通ることとなった(これにより、鵠沼駅まではほとんど鵠沼地区を通るようになったことは、既に始まっていた「鵠沼海岸別荘地」開発にとっては好都合だった)。大正時代になると、目白山などの丘陵斜面にも別荘が散在するようになった。小田急江ノ島線が開通し、湘南遊歩道路が開通すると、官有地の払い下げを受けて西浜(片瀬海岸二~三丁目)が計画的地割りを持った住宅地として開発され、分譲された。ここはむしろ別荘地というより定住の住宅地として開発された。1936年(昭和11年)以来、カトリック聖コロンバン会が片瀬乃木幼稚園、片瀬乃木小学校、片瀬乃木高等女学校、カトリック片瀬教会を次々に開設した。軍国主義が進行する中、片瀬ゆかりの日露戦争の英雄の名を冠したわけであるが、戦後、これら幼稚園や学校は湘南白百合に改名された。 1950年代、片瀬山丘陵の地形を利用して、佐藤和三郎の手でゴルフ場が開設されたが、長続きしなかった。その跡地に1967年(昭和42年)から1977年(昭和52年)にかけて三井不動産の手で開発されたのが「片瀬山住宅地」である。ここは整然とした戸建て住宅の集合体であるが、1970年代になると、国道沿いに中層の集合住宅が建ち始め、1980~1990年代にピークを迎えた。片瀬海岸の集合住宅や最近の分譲住宅には、サーファーの居住を予想して入口付近にシャワーや水洗槽を設置することが流行している。 地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、片瀬4-10-7の地点で23万円/m2となっている[5]。 地名古くは、方瀬、潟瀬、肩瀬、固瀬などとも書かれた。 伝統的集落名ほとんどが現在の片瀬三、四丁目を中心に分布していた。
旧小字1873年(明治6年)5月1日に制定された
住居表示現在の片瀬地区における住居表示実施の経緯は次のとおり。
町名の変遷
地名の由来片瀬川の曲流により、攻撃面が渕、堆積面が瀬になるからというのが一般的な通説である。しかし、これはどの川にも当てはまるので、理由としては根拠に乏しい。砂浜の傾斜がきわめて緩やかで、島陰などのため寄せ波の力が弱い場合、浜堤はあまり発達せず内陸まで波が寄せ、それが引き波になる頃には次の寄せ波が打ち寄せるように見えることがある。このような波を片瀬波といい、片瀬の地名はそれによって名付けられたとの説もある。 歴史漁村および商港であったが、明治期から別荘地として知られるようになり、現在は観光地として有名である。 先史時代
古代
中世
近世
近代
現代
地域の特色片瀬の仏教寺院片瀬地区の仏教寺院は、片瀬山の山麓に分布している。常住の寺院は北から片瀬山大聖院泉蔵寺 (高野山真言宗)、宝盛山薬師院密蔵寺 (真言宗大覚寺派)、龍口山本蓮寺 (日蓮宗)、龍口山常立寺 (日蓮宗)、寂光山龍口寺 (日蓮宗)であり、泉蔵寺の北方には無住の岩屋不動(石籠山救法教寺)がある。ここは泉蔵寺が管理しているから、真言宗としてよかろう。すなわち、北の3か寺が真言宗、南の3か寺が日蓮宗ということになるが、本蓮寺と常立寺は真言密教系寺院から日蓮宗に改宗したといわれ、龍口寺はその後に創建されているから、かつては真言宗寺院しかなかったことになる。 上記の日蓮宗寺院のうち、本蓮寺と常立寺はいずれも龍口山という山号を持つ。同様な寺院は鎌倉市腰越地区に本成寺、勧行寺、妙典寺、東漸寺、本龍寺、法源寺があり、総称を「龍口輪番八ヶ寺」または「片瀬腰越八ヶ寺」という。日蓮の龍口法難の地に建つ寂光山龍口寺は、1886年まで住職がおらず、これら八つの寺が順番に霊場を守ってきた。 片瀬の近代化と山本家江戸時代は片瀬村の名主だった山本家の庄太郎は、1873年(明治6年)、江の島道の片瀬川「石上の渡し」の箇所に架橋し、「山本橋」と命名した(後に下流に同名の橋が架橋されたため、「上山本橋」と改名された)。1878年(明治11年)の郡制施行より長期にわたって鎌倉郡の郡長を務め、片瀬村北西部低湿地を干拓して水田化を進めた。東浜に海水浴に訪れた暁星学校の職員らと偶然出会って自宅に招き、学齢期だった次男信次郎、三男三郎を暁星学校に進学させた。さらに1907年(明治40年)、乃木希典が学習院院長に就任すると、片瀬游泳指導時には山本家が宿舎を提供した。 庄太郎の長男百太郎は、若くより片瀬村の収入役、郵便局長などを務め、江ノ電の大株主になった。百太郎は自宅近くの片瀬川に「山本橋」を架橋し、砂丘上に砂防林のクロマツを植樹するなど別荘地開発のインフラ整備に努めた。次男信次郎(後に海軍少将)、三男三郎(後に桂太郎首相の秘書)は暁星学校でカトリックに入信し、自宅にカトリックの仮聖堂を設けた、これが後にカトリック片瀬教会に発展し、片瀬乃木幼稚園・小学校・高等女学校(戦後は湘南白百合に改名)の開設に結びつくのである。 片瀬のネームバリュー片瀬の集合住宅には次のものがある。
これらの名称を見ると、所在地の片瀬よりも江の島(江ノ島)あるいは湘南を名乗るものが多く、江ノ電鵠沼駅が最寄り駅の片瀬五丁目では、片瀬にありながら鵠沼を名乗るものが複数ある。どうやら不動産業者にとって地域名のネームバリューは湘南>江の島>鵠沼>片瀬という順序があるらしい。[独自研究?] 江の島あるいは江ノ島の呼称は、対岸の片瀬海岸一~三丁目および鵠沼海岸一~二丁目を含む一帯の上記駅名をはじめ、組織名、企業名、行事名などに広く用いられ、観光地江の島はこの一帯を含んで認識されている。
藤沢市への合併の経緯
世帯数と人口2023年(令和5年)9月1日現在(藤沢市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2015年6月時点)[16]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[17]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
施設
文化財・名勝など指定・登録文化財
藤沢市名誉市民名称
年中行事伝統行事
観光行事
名物・名産
地区内の交通機関
ゆかりのある著名人
片瀬の出てくる作品文芸絵画音楽映像・コミック・ゲームなどその他日本郵便脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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