大津皇子
大津皇子(おおつのみこ)は、天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。 生涯663年(天智天皇2年)、九州の那大津で誕生。『日本書紀』によれば天武天皇の第3皇子とされる(『懐風藻』では長子とされる)。 『懐風藻』によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。 母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に薨去し、姉の大来皇女も斎宮とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。 683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である首親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる[1]。しかし、当時まだ年少だった長皇子・舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。 686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に 『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。また、『万葉集』の題詞には薨去の直前に、姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。 謀反や薨去に関する論争大津皇子の謀反にかかわる内容のうち、川島皇子の密告については都倉義孝などによる虚構を主張する論者もある。また、謀反の内実については和田萃のように、天皇の殯宮で皇太子を 『万葉集』と『懐風藻』に辞世が残っているが、上代文学にはほとんど辞世の作が残らないこと、また『懐風藻』の詩については陳の後主の詩に類似の表現があることなどから、小島憲之や中西進らによって皇子の作ではなく、彼に同情した後人の仮託の作であろうとの理解がなされており、学会レベルではこの説も支持されることが多い。 事件の背景には、鵜野讃良皇后の意向があったとする見方が有力である(直木孝次郎)。 大津皇子に関する歌
辞世和歌
漢詩
墓大津皇子の墓は、宮内庁により奈良県葛城市染野の二上山雄岳山頂付近にある二上山墓(ふたかみやまのはか、北緯34度31分32.35秒 東経135度40分44.40秒 / 北緯34.5256528度 東経135.6790000度)に 一方、近年では二上山山麓の鳥谷口古墳(奈良県葛城市染野)を真墓とする説も挙げられている。なお、奈良・薬師寺には大津皇子坐像<奈良国立博物館寄託>(重要文化財)が伝わっている。 血縁なお、この粟津王は豊原氏の祖とされるが、系図には矛盾点が多く、信憑性は薄い。 大津皇子を題材にした作品
脚注注釈
出典参考文献 |