浅井良
浅井 良(あさい りょう、1979年7月19日 - )は、神奈川県横浜市戸塚区出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)、野球指導者。 経歴プロ入り前神奈川県横浜市戸塚区出身。桐蔭学園高校では2年の途中まで捕手を務め、秋季神奈川県大会準決勝で敗退して以降は投手に転向し、川岸強に代わってエースとなった。3年夏には第79回全国高等学校野球選手権大会に出場して1回戦で如水館高校に勝利したが、2回戦で西京高校に延長10回の末敗れた。高校時代の同級生には川岸強や後に阪神でチームメイトとなる平野恵一がおり、平野とは3年間同じクラスだった。 高校卒業後は東京六大学野球連盟の法政大学に進学して捕手に再転向し、持ち前の強肩で盗塁阻止率8割超を記録したが、「盗塁阻止率記録なしが目標」とし、盗塁は不可能と思わせて盗塁企図自体をさせないことを目指していた。大学での初安打が本塁打など思い切りのいい打撃でも頭角を現し、4年秋のリーグ戦では本塁打と打点の二冠王を獲得し、大学最後の打席でも本塁打を放った。リーグ戦通算69試合出場、197打数56安打・打率.284・3本塁打・36打点。ベストナイン2回。 2001年のプロ野球ドラフト会議で阪神に自由獲得枠で指名され入団。大学の先輩でバッテリーを組んでいた安藤優也と同期入団となり、再びチームメイトとなった。 プロ入り後大学時代に評判だった強肩は制球難で悪送球を繰り返し一軍に定着できなかった。2005年から打撃を生かすために外野手にも挑戦。2006年は相性の良い江草仁貴が先発する試合を中心に捕手としてスタメン起用される機会も増え、矢野輝弘に次ぐ第2捕手となった。 2007年は狩野恵輔や新人の清水誉が開幕一軍に入り、二軍でのスタートになった。矢野の故障で交流戦中に一軍昇格し、外野手としてスタメン出場することもあったが捕手を務めることはなく、二軍でも外野手や一塁手としての出場がほとんどだった。同年オフ、本格的に野手転向することを宣言。 2008年から正式に外野手登録となったが、緊急時の第3捕手としても期待され[1]、シーズン初出場となった4月6日の対読売ジャイアンツ戦では捕手として途中出場した。相手先発投手がサウスポーの時に時折右翼手として、赤星憲広が首痛や不眠の影響でスタメン落ちした際には中堅手としてスタメン出場した。6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦では杉内俊哉から同点適時打を放った。 2009年は赤星の代わりに中堅手、桜井広大が負傷で離脱した際には右翼手を務め、9月16日の対巨人戦では4安打を放ち、二塁打が出ずサイクル安打を逃した[2]。同年は、打撃面でも自己最高成績を記録した。 2010年には、金本や桜井の不調で中盤以降はスタメンや守備固めで出場することが多くなった。主に中堅手として出場したが、9月9日の対中日ドラゴンズ戦では野手を全て使いきった状態でクレイグ・ブラゼルが退場処分を受けたため、代わりの一塁手として入った[3]。同年は自己最多の85試合に出場した。 2011年は、前年から一転、絶不調に陥った。出場試合数は63試合であったものの、打率.138・打点5の成績に終わった。 2012年も、前年よりも幾分持ち直し、出場試合数も前年とほぼ同じであったものの、打率.211に終わった。シーズン終了後、阪神に新加入する福留孝介が背番号8を着用することとなったため、その年限りで阪神を退団して古巣のオリックス・バファローズに復帰することが決まっていた高校時代の同級生である平野からの薦めもあり、平野が付けていた5に変更された[4]。 2013年は出場試合数が46試合に減少し、打率.220・1本塁打・5打点だった。10月21日に球団から戦力外通告を受け[5]、第1回12球団合同トライアウトに参加する[6]も獲得球団は現れず、12月31日現役を引退した[7]。 現役引退後2014年10月31日、大阪のミナミ(心斎橋)にBAR「AZAS'(アザス)」を開業した[8]。のちに北新地に移転[9]。 飲食業経営の傍らで「ブリスフィールド東大阪 スポーツアカデミー」の打撃兼捕手コーチを務め、少年野球指導も行っている[10]。 2022年10月17日、関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)の06BULLSで2023年(同年からチーム名は「大阪ゼロロクブルズ」に変更)からヘッドコーチに就任することが発表された[11]。2シーズン務め、2025年1月6日に前年シーズンをもって退任したことが発表された[12]。 選手としての特徴
初球や早いカウントから仕掛ける思い切りの良いスイングが特徴。反面、四球を選ぶことは少なく、IsoDは極端に低い傾向にある。 安打数のうち二塁打・三塁打の割合が比較的多い中距離打者である。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰
記録
背番号
登場曲
出演番組テレビ
脚注
関連項目外部リンク
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