河野氏
河野氏(かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れをくむとされる。第22代当主河野通清以降は「通」を通字とする。 また、当一族の「河野」姓の読みは、和名類聚抄、平家物語、竹崎季長絵詞等々から、「かわの(かはの)」が正確、正統なものであることが判明しているため、基本、当姓の読みについて現状に於ては適切なものとして専ら「かわの」と表記。(詳解は、“当時の「河野」の読み方”の項目”や、“河野玉澄”等の記事も参照) 室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書『予章記』と『予陽河野家譜』などではその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。 概要河野氏は河野郷(旧・北条市河野地区付近)を出自とする[1]。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の武将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる[要出典]。 河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧・北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城[要出典]を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。 一時的に河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道後平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり[要出典]、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない[要出典]。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。 歴史平安・鎌倉時代平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。 鎌倉時代になり承久の乱のとき、通信ら一族の大半が反幕府方の後鳥羽上皇に味方して処罰を受けたために一時的に衰退し、幕府方についた孫の河野通久と出家の身であったために参戦しなかったその庶兄の通広だけが残された。 元寇のときに勇将・河野通有(通久の孫)が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。ところが、通有の没後に家督を巡る内紛が発生した上、元弘の変では一族のほとんどが鎌倉幕府討幕に立ち上がる中で、惣領である河野通盛(通有の子)だけが最後まで幕府に従ったために建武政権成立後に逼塞を余儀なくされて、再び衰退した。 なお、河野通信の子に通広(別府通広とも)がいるが、承久の乱の際には既に出家して如仏と号し、西山上人・証空の下で仏道修行に励んでいた為に参戦していない(通広はのちに還俗する)。この河野通広の子(俗名は河野時氏。通尚、通秀とも)もまた出家して「随縁」と号し、太宰府にいた聖達に師事して十二年間浄土教学(西山義)を学んだ。その間に肥前清水にいた華台上人にも一年ほど師事し、その際「智真」と改めた。この智真が後の時宗の開祖となる一遍である。 南北朝・室町時代南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼之の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通堯は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、通堯は南朝から幕府に帰服し、斯波義将から伊予守護職に任じられ頼之追討令を受けて細川方と戦うが、頼之の奇襲に遭い戦死した。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。 室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。 戦国時代・安土桃山時代戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力武将村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死と通直の失脚で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。この隙を突いて、周防の大内氏の攻撃が激化、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわなかった。この頃の河野一族は、戦乱が絶えず、一族そろって無事に正月を迎えることが難しかったため、旧暦12月の、巳の日に先祖の墓前で一家よりそって餅を食す「みんま」という慣わしができた。これは、現在も愛媛県中予地方を中心に各家々で受け継がれている。 国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の伊予西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の土佐一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や天正9年(1581年)の来島通総の離反など苦難は続いた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予の支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして天正15年(1587年)、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。 河野氏遺臣の再興のための戦い慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ2000余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で散陣していたところに夜襲を受け、火を掛けられ混乱し激戦の末に少数の加藤勢に撃破された(三津浜夜襲)。翌日にも体制を立て直した残兵が伊予国内を荒らすが、久米付近で佃十成と遭遇し合戦の上撃退され退却を繰り返す。荏原城など各地で河野氏旧臣が呼応して蜂起し篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、毛利勢は伊予国から退散。一揆勢も完全に鎮圧された。 「河野」の由来越智玉興(伊予橘氏の祖)と越智玉澄の兄弟が699年(文武3年)に都落ちする際、瀬戸内海の備中沖で飲料水が無くなり、玉興が弓を海中に差し込み潮を掻き分けた所、真水が湧いてきて渇を癒す事ができた。これが水島の地名の由来となり、この故事に鑑みこの水の源は越智氏の領地である伊予国高縄山から流れてきたものであるとし、「この水の可なること、予が里よりす」と玉興が言った事から「水」「可」「予」「里」の4字を組み合わせて「河野」とし、居館の地域を「河野郷」と称し、養子となった玉澄が「河野」を苗字とした。 当時の「河野」の読み方現代では一般的に、河野は「こうの(かうの)」と読まれていることも多い。しかし、『平家物語』にも記されているように、往年、河野氏が台頭していた当時においては、河野氏はそのまま「かわの(かはの)」と呼ばれていたことが窺える。 (河野の「河」と「川」は訓読みでは古来同音であり、また、その河すなわち川(かは=かわ)の発音は今昔でその根幹のさしたる相違はないと言ってもよく、やはり「かはの=かわの」の表記、発音が、「かうの=こうの」よりも正確性を有し、妥当であろうことが鑑みられる。) 古くは延慶年間(1308~1311年)に書写が成されて、平家物語の諸本中で現状、最古の物とされる所謂、延慶本の中に於いて、河野氏を「川野」などと記述している事からも、その事実が読み取れる。 (平家物語に限らずに遡れば、平安時代の和名類聚抄における伊予国の河野郷の記述に於ての「加波乃(かはの)」の表記が見受けられる。) 加えて、当時を知る竹崎季長が描かせた、鎌倉時代の絵詞にも、河野通有を「かはのゝ六らうみちあり」と記している他、 河野通忠を「かハのゝ八郎」、河野通信を「みちのぶ乃かはのゝ四郎」と記している。 また、江戸時代初期の元和年間(1615~1624年)中に出版された流布本などにも河野は、やはり「かはの」と記述されている。 この事などから、少なくとも延慶年間以降、或いは河野宗家が滅亡した戦国期以降、近世において次第に、「かはの(かわの)」が「かうの(こうの)」へと転訛して行き、河野氏の影響力の低下などにより、残った苗裔の伝を除き、正統な呼称が世間から経年につれて忘れ去られ、現在に多く見られるような、「こうの」の読み方が一般的に広まっていったとも考えられる。 (名称などが転訛した例の一部としては、「神戸(かむべ、かんべ、等)」が、「こうべ」へと読みが変化していったことや、また単なる横訛りに留まらず、長野県に関する「筑摩(つかま)」の呼び方が、明治時代から「ちくま」へと変化、一般化したことなどが挙げられる。) 或いは、明治期における四民平等に際し、三民の姓の普及などによって、単に「かわの」を「こうの」と誤読した(または転訛した)ものが多く広まり、一般化したという様な推測の余地も生じる得るが、「かわの」から「こうの」読みへの変化は、いつ頃から、どのような経緯などによるものかは現在明らかになっていない。 何れにしても、明治時代から士分等に限らず、誰しもが姓を冠するようになってより、「河野(かわの)」を「こうの」と呼ぶ風潮に拍車が掛かったのであろうということを鑑みることができる。 なお、現在でも九州では、かつて豊後国、日向国などに移住などをした河野氏一族のために河野(かわの)姓が多く、その子孫が(また、後裔に限らず)、当時の河野の読みの古態を今に伝えている("伊予国以外の河野氏"の項目も参照)。 河野氏の家紋家紋は、伊予の古代以来の豪族である越智氏より続く「折敷揺れ三文字」を用い、第23代当主の河野通信より「折敷三文字」へ変更した。理由は鎌倉幕府の開府の時に鎌倉で行われた酒宴の席順が、源頼朝、北条時政に次いで河野通信が3番目で、「三」と書かれた紙が折敷に置いてあった。このことから、古来使用していた大山祇神社の社紋でもある「折敷揺れ三文字」を改め、席順の紙を上から見た「折敷三文字」の紋を頼朝から貰ったと伝えられる。 時宗は、開祖一遍が河野通信の孫となる事から、宗紋(宗派の紋)は通信以後が用いた「折敷に三文字(中の三文字は文字様ではなく、意匠化されたもの)」となっている。時宗では、もっぱら「隅切り三(すみきりさん)」と呼ぶ。 伊予国以外の河野氏宮崎県と大分県奥豊後地方に河野(かわの)姓が多い。とくに宮崎県の河野氏は『都城市史』には南北朝時代に伊予より日向に上陸したとの記述がある。南北朝時代以前の絵詞等では河野氏は「かわの」と記されており、南北朝時代以降、時代が下るにつれ「こうの」という読み方に変化していったと考えられている。 (これに就いて、現在、かつての本拠であった愛媛の地に於てですら「かうの(こうの)」読みが一般的となってしまっているが、河野氏は戦国時代に敗れ、本拠であった伊予の地から立ち退かされる形となったのであり、それ以降、伊予では度々、他家の入封が行われ、結果、主に伊予の地域は松平家の領地となり以来、明治維新まで松山藩等の治める地となったのである。その更に後世である今の愛媛に、敗れ去って行った曾ての領主一族の正確な呼称が人伝えに残っていないのも当然であろうと考えられ得る。 加えて、九州の一部に「かわの」読みが多く残っていることについて、伊予に程近く、度々、河野一族の者が多く移住し、その寄る辺となっていた日向国(宮崎県)の沿岸地域、延いては九州地方の血族、その苗裔が河野宗家が存続していた当時からの正確な呼称であった、「かはの(かわの)」の読みを今に残していることは実情によく適っていると言える。) 『小林市史』には河野通貫の代の貞治5年(1366年)6月宮崎郡下着、その後数代を経て河野伊予守正弘の代に日向国三俣院高城の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に赤木氏を称するようになったとある。また『宮崎県史 史料編』では、室町時代の享禄4年真幸院の在地領主として河野四郎通安の名前を見ることができる。いずれも通字として河野氏の通字「通」を継承しており、中世よりつながりがあると伝わる。 『河野・川野一族』によれば、河野通信の子得能通俊の子孫が日向に移住、伊東氏に属した。児湯郡に河野姓が多いのは伊東氏に属し、土着したためとある。 戦国時代に武田信玄によって武田水軍が編成された際に、河野氏の一部が武田氏の傘下に入り、水軍の技術を伝えている。その子孫は山梨県や静岡県に見られる[要出典]。 越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している[要出典]。 因幡国智頭(現・鳥取県智頭町)にある河野神社(周辺にあった4つの社を合祀してできた)の社名は神職の名字由来であり、この社家河野家は伊予河野氏の子孫と言われている 広島県安芸高田市には伊予河野氏の一門である河野通信(三郎左衛門)が毛利氏に従って移り住んだのちも吉田庄番をつとめるなどしていた[2]。3代目河野与三郎の頃に竹野屋を起こし豪商となり、1670年代に救済土木事業として行ったへらほりの池は現在も吉田地域でよく知られている[3]。のちにこの河野家は13代萬右衛門の頃に広島原爆に遭い断絶している[4]。 河野氏歴代当主系譜凡例 ※ 太字は当主、太線は実子、細線は養子。
※ 晴通、通宣(左京大夫)兄弟については、実父を通直(弾正少弼)・通存とする両説が有る。また、通直(兵部少弼)については、来島村上氏からの養子(村上通康と宍戸隆家の娘の子で、通康の死後に隆家の娘が通直を連れて通宣と再婚した)とする説もある[5] 。 庶家
河野氏主要家臣団(戦国期)河野氏出身の著名な人物
河野諸氏末裔以下、列記のこれらの人々が河野姓やそれに関わる姓を冠しているというだけ等で、実際に当氏の血族苗裔であるかないかの事実、真偽は不明である。
脚注参考文献
関連項目 |