汪皇后
生涯金吾衛三品指揮使であった汪泉の孫娘。正統年間、郕王朱祁鈺(後の景泰帝)の邸に入り、正室となった。2人の女子を産んだ。土木の変により景泰帝が即位すると、皇后になった。父の汪英は正一品都督に封じられた。 気性の激しい女性だったといわれるが、しかし良妻として名高い。景泰3年(1452年)、景泰帝は甥の皇太子朱見深(後の成化帝)を廃すと、実子の朱見済を皇太子に立てようと図った。汪皇后はそれに反対したが、景泰帝は激怒して汪氏を廃し、代わって杭氏(朱見済の母)を皇后に立てた(景泰年間に崩じた)。奪門の変後、汪氏は郕王妃に降格した。 正徳元年12月23日(1507年1月5日)、薨去した。王鏊の建議により、妃の礼で葬られ、皇后の礼で祭祀された。また、貞恵安和景皇后という簡素な諡号が贈られた。南明において弘光元年(1645年)、孝淵粛懿貞恵安和輔天恭聖景皇后の諡号に改められた。 子女
参考文献
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