檜原村
![]() 檜原村(ひのはらむら)は、東京都の多摩地域西部に位置し、西多摩郡に属する村。 島嶼部(とうしょぶ)を除いた本州内の東京都における唯一の村。面積は奥多摩町、八王子市に次いで、東京都の市区町村で3番目に広い。あきる野市への通勤率は15.5%(平成22年国勢調査)。「桧原村」と書くこともある。 地理村域のほとんどが関東山地の中にあり、多摩川の支流である秋川上流の周辺に集落がある。標高が最も低い地点は、あきる野市との境界線になっている下元郷(しももとごう)の中山沢が秋川へ流入する地点で、海抜224.5m。標高が最も高い地点は、三頭山頂の1531m。村の総面積の93%以上が林野で、村域の大半が秩父多摩甲斐国立公園に指定されている[1]。中央高地式気候に属し、冬の寒さは都心と比べて厳しく、払沢(ほっさわ)の滝が凍結するほどである。降雪量も東京都心と比べて多くなるため、路面凍結や集落の孤立などの雪害が発生しやすい。 北秋川と南秋川が合流して秋川となる付近を本宿(もとしゅく)と言い、ここが村役場がある中心部である。ここから下流に向けて上元郷、下元郷の地域がある。都道33号檜原街道がこれに沿う。 北秋川に沿って都道205号が通っており、少し遡った所で払沢(ほっさわ)の滝への歩道が分かれる。以後、千足、三都郷(みつごう)、神戸(かのと)、小沢、樋里(ひざと)、笹久保、藤原、中組、倉掛(くらかけ)の地域がある。 南秋川に沿っては都道33号が沿う。笹平、南郷と遡り、上川乗で都道33号が南秋川から離れて甲武トンネルを経て上野原市(旧上野原町)に向かう。以後川に沿う道は都道206号となり(通称は依然檜原街道)、和田、人里(へんぼり)、笛吹(うずしき)[2][注釈 1]、数馬(かずま)の地域がある。数馬から奥の道路は奥多摩周遊道路となり、奥多摩町の奥多摩湖へ通ずる。 隣接している自治体・行政区歴史立村前縄文時代現在、檜原村村域となっている地域には縄文早期以降、人が住んだ跡が幾つも発見されている[3]。縄文中期になると、現在の檜原村の各集落がある地域にはそれぞれ1家族から3家族程度の規模で人が定住していたと考えられている[4]。縄文期の村域の人口は20人から40人程度であったと推測されている。[5] 古墳時代古墳時代になると、大陸からの渡来人系の集団が近畿地方から移住したと考えられている。人里(へんぼり)集落の名前の由来は、「フン」「ボル」(モンゴル語で人間を意味する「フン」と、新羅語で集落を意味する「ボル」)が訛ったものではないかとの説もある[6]。 橘高安8世紀頃、河内にいた高麗系の渡来人集団である高安氏と橘戸氏は人里集落の渡来人系集団を頼って来住し、南秋川沿いにある人里から浅間尾根を越えた北秋川沿いに定住した(現在の小岩)。この集団の長は代々「宿辺少将橘高安(やどりべのしょうしょうたちばなたかやす)」を名乗った。 安和の変北秋川と南秋川を隔てる浅間尾根には、とある高貴な人物の墓所があると小岩集落で口伝されてきた。これについて平安時代の安和の変との関係を指摘する意見もある。それによると、安和の変の際に追っ手がかかった源連(みなもとのつらぬ)は東国に逃亡して橘高安にかくまわれ、後に為平親王の第4子為定親王(源為定)を呼び寄せたとされる。小岩集落にある「王子が城」「タメサダヤカタ」の古地名がその理由として挙げられている[7]。 平山氏による支配と落人伝説あきる野市の大悲願寺の過去帳および小岩の宝蔵寺の縁起(勝軍地蔵縁起)によると、宝蔵寺の創建は12世紀から13世紀にかけて活躍した平山氏(日奉氏)の武将、平山季重とされている。このことから、12世紀頃には武蔵七党の日奉氏(西党)の勢力が村域に及んでいたと推測されている[8]。平山氏はその後、1546年の河越城の戦いを経て後北条氏に仕えた。 また鎌倉時代には和田義盛や吉野重季の一族が落ち延びてきて村域に住んだとの伝説が残されており、和田集落は和田一族が住んだ場所であると考えられている。また数馬集落は南北朝時代に南朝側で戦った小野氏経が移り住んだ集落である。その他にも、甲州征伐での武田氏滅亡の際に逃げてきた人々が神戸集落に定住したなど、各集落には様々な時代に村域に逃げてきた落人が家の先祖であるとの口伝が数多く伝わっている[9]。 太神楽や式三番が始まったのもこの時期で、前者は1545年、後者は1561年に創始されている[10]。 1590年の豊臣秀吉の関東侵攻の際、後北条氏に仕えていた平山氏重は檜原城を守り、八王子城の落城と同じ日に檜原城も落城して氏重は敗死している(これにより平山氏本家は滅亡)。檜原城の落城の経緯には諸説あり、氏重と八王子城代家老の横地堅物は一戦して敗北したという説と、氏重らは戦わずに城を捨てて自刃したという説がある。また氏重の息子の氏久は宗白と改名して、檜原城落城後も引き続き檜原に居住したとされる[11]。 江戸時代の檜原江戸時代の檜原は天領となり、代官が置かれた。五日市から浅間尾根を通って甲斐国に抜ける道は甲州中道と呼ばれ、甲州道中の裏街道として盛んに利用された。本宿の橘橋には番所が置かれ、甲州中道を通る者を監視した。この番所は「口留の番所」と称した。 檜原は代官の下で23の組に分けられていた。村民の代表者として世襲制の名主がおり、また各組にはそれぞれ年寄と百姓代が置かれていて(合計で46人)、住民による自治が行われていた[12]。主な産業は炭焼きや林業であった。檜原で焼かれた木炭は五日市に運ばれて売却された。1789年に檜原からこの販路で出荷された木炭は13万5163俵であった。江戸の街作りや火事によって檜原の木材需要は増え、林業も盛んになった。当初、檜原には木挽き師や杣師がいなかったので、青梅から技術が導入された。この頃の檜原の山林はモミ、クリ、ケヤキ、ツガなどの原生林であった[注釈 2]。切り出された木材は筏師によって秋川、多摩川を流され、江戸市中へと出荷された。[13] 新編武蔵風土記稿によれば、23組は以下の通り。
明治維新明治維新後、村は最初韮山県に属し、1871年には神奈川県となった。この年には戸長が置かれ、その時点で名主であった吉野郡次が戸長となった[14]。村域は江戸時代以前と変わらないものの、地租改正に伴い1876年に村内に13の字(中字的なもの)が設置された[15]。また地番として、1番地〜5209番地までの宅地番(畑番)と、5210番地〜9492番地までの山地番(山番)が二巡制[16]で採番され、現在もそのまま利用される。
立村後1889年(明治22年)4月1日、 町村制施行により立村。[17][18] (立村当時は神奈川県西多摩郡檜原村)戸長役場が村役場となり、上元郷に置かれた[注釈 3]。初代村長は選挙により吉野郡次が当選した。しかし1881年頃から村人の間で村政の主導権を巡って争いが続いていた。1893年(明治26年)4月1日 、西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に東京府へ編入された。これに伴い、檜原村も神奈川県から東京府の一村となった。だが前述の内紛のあおりを受けて、東京府編入の直前に助役、収入役、村長が辞任するという事態となった。さらに5月に新しく選出された村長が8月には辞任してしまい、村の自治は大混乱となった。 この村内の対立と混乱はなおも続き、1898年から3年間は村長そのものが不在となった。村長不在の事態は村外の人間の官選村長就任によって解消され、6代目から8代目までの3人が村外の官選村長となった。しかし村内の対立は解消されず、分村問題が浮上することになった。この時の分村問題は「南檜原区会」の設立という妥協案にて何とか収拾を見たものの、1913年には再び分村問題が再燃し、1915年には「南檜原区会」が分村を求めて国会や東京府、西多摩郡に請願書を提出した。この分村は東京府や西多摩郡の説得によって回避されたが、「南檜原区会」は1941年まで存続した[19]。 1943年(昭和18年)7月1日、都制施行により、東京府、東京市が統合して東京都が新設され、檜原村も東京都となった。 1984年(昭和59年)3月31日、防災行政無線が開局する。 変遷表
昭和・平成の大合併昭和の大合併や、現在の市町村制度の基礎が成立した1889年、およびそれ以前から含めても400年以上に渡って一度も市町村合併を行わずに単独での自治体形成を保っている。これは島嶼部を除いた東京都の自治体では唯一である。また、その当時からずっと村制のままで単独存続しており、これは東京都はもちろん、首都圏の自治体の中でも非常に珍しいパターンである(同様の例としては隣接する山梨県小菅村がある)。 人口推計人口は1,803人(2025年1月1日現在)で、島嶼部を除いた東京都の自治体の中で最も少ない。なお、島嶼部の村を含めた場合でも小笠原村、新島村、三宅村よりも少ない。世帯数は1,130世帯である(2022年9月1日現在)[2]。65歳以上が人口比の50%以上を占める限界自治体の一つ。 面積に対して人口が少ない為に、人口密度は首都圏の自治体の中でも珍しく17.1人/km2と非常に少ない。
行政
村長
歴代村長
議会檜原村議会東京都議会2021年東京都議会議員選挙
衆議院
広域連携・自治体交流公立図書館の相互利用などで、西多摩地域広域行政圏の各自治体とのあいだで連携している。また、東京都利島村と友好村となっており、サマースクールやスキー教室で毎年交流を行っている。 警察・消防等
経済産業檜原村は山に囲まれているため、昔は林業や製材業が盛んであった。近年は昔ほど盛んではなくなったものの、林業請負ベンチャーが起業されるなど新しい動きもある[23]。今は山の石を取る採石業が行われている他、公共事業などを受注する土木・建築等の建設業が多い。 山の斜面の日当たりの良いところでは、水はけの良い土地を利用して、ジャガイモやコンニャクイモなど、芋類の栽培が行われている。その他、山の涼しい気候を生かしたシクラメンなどの栽培や、山のきれいな水を利用したワサビ、また、きのこ栽培なども行われている。 食品加工としては、コンニャク、豆腐、おやき、漬物などの生産が行われている。その他、手工芸品の生産として、木工品、陶芸品、竹炭などの工芸品の製作、草木染め、刺し子などの手芸品の製作なども行われている。 また、豊富な自然を利用した観光・サービス業も多い。民宿、旅館、キャンプ場、釣り場、温泉、土産物店、飲食店などがある。
買い物村民の普段の買い物は、地元の雑貨店・酒店などの商店で済ますことが多い。また、日用品を車で売りに来る行商もいる。村内にコンビニエンスストアはない。スーパーマーケットもなかったが、村内の商店が減少していることから、2016年7月に第三セクター運営のミニスーパー「かあべえ屋」が開業した[24]。 その他、自家用車またはバスなどで隣接するあきる野市などの多摩地域の商業施設に行く場合や、武蔵五日市駅前の駐車場に自家用車を駐車して、鉄道で新宿などの遠方へ買い物に出かける場合もある。 金融機関JAあきがわ檜原支店(村指定金融機関)、檜原郵便局がある。銀行、信用金庫、信用組合はないため、隣接するあきる野市の金融機関を利用することが多い。 地域福祉・医療・保健村では福祉・医療・保健施設を集約した「やすらぎの里」を運営している。
また本村を含めた秋川流域の3市町村で、あきる野市で公立阿伎留医療センターを運営している。 福祉および保健施設・団体
福祉モノレール檜原村の福祉モノレールは、エンジン式のラックピニオン式モノレール(西日本で言う「みかん山モノレール」)であり、乗用車が入れない急傾斜の山間部、計5カ所、現在は4カ所に設置されている。2004年(平成16年)から順次、同村によって建設導入された[30]。
千足線は小林家住宅にも通じている。 乗車定員はいずれも3名で、後部に荷物用スペースがある。猿江線は住民退去に伴い設備が撤去された。 いずれの路線も手動でエンジンを始動して利用する。高齢者の福祉目的のために管理運営されており、利用できるのは地元住民と用務者に限られている[31]。 小林家住宅観光モノレール小林家住宅観光モノレールは、同住宅修復資材運搬のため新たに国の経費で敷設され、修復完了後は檜原村に移管された上で観光客用途に設備が変更された。見学の場合は「小林家住宅観光モノレール」を予約の上で一般者として利用することができる[32]。途中の角度は最大斜度43度に達する。かつては8人乗りのモノレールだったが、自重により故障が頻発したため現在は6名乗りに変更されている。 このモノレール目当てで訪れる観光客もおり、2時間待ちの行列が出来ることもあった。地すべりの恐れがあるため2016年4月から運行を中止していた[33]が、2017年4月7日に再開された[34][35]。 文化・教育学校教育村内に幼稚園はない(保育園はある。ひのはら保育園[27])。また高等学校、大学はないため、生徒・学生は村外の学校へ通学するか下宿する。1980年代まで、東京都内の市町村では唯一、小中学校の冬休みが若干長かった(1週間長くおおむね21日間)。しかし、その分夏休みは短かった。 2011年度(平成23年度)より、小中学校は一貫教育校として通称「檜原学園檜原小(中)学校」となった[38]が、正式名称には「檜原学園」の呼称は付さない。また、小中学校の校舎は従来通りである。 社会教育なお、本村は、文化放送の番組・タイムテーブルでも取り上げられている(文化放送 GREEN WORKS)。 郷土芸能本宿地区の「御とう神事(おとうしんじ)」、小沢地区及び笹野地区の「式三番(しきさんば)」、柏木野地区の「神代神楽(じんだいかぐら)」、人里地区の獅子舞[42]などが、東京都無形民俗文化財に指定されている。その他、村内各地に獅子舞、囃子などの伝統芸能が伝承されている。 ライフライン
交通鉄道村内に鉄道路線は通っていない。鉄道を利用する場合の最寄り駅は、あきる野市の東日本旅客鉄道(JR東日本)五日市線武蔵五日市駅。 バス西東京バス(五日市営業所)により、武蔵五日市駅から本宿役場前を経由して数馬・藤倉方面へ向かう路線バスが運行されている。また、都民の森への急行バス及び連絡バスも運行されている。 隣接するあきる野市以外の八王子市、奥多摩町、山梨県上野原市、神奈川県相模原市などへのバス路線はない。 道路村へアクセスするルートとしては、中央道八王子インターチェンジおよび圏央道あきる野インターチェンジから国道411号滝山街道経由、圏央道日の出インターチェンジから都道7号五日市街道経由、都道33号檜原街道経由の3本がある。また数馬地区など、南秋川へは中央道上野原インターチェンジから甲武トンネル経由が近い。
村内の道路は山際を走っていることから土砂災害による被災リスクが高く、迂回路も少ない。そのため、都道33号の代替路線として秋川南岸道路、南北両谷を結ぶ檜原村南北横断道路の建設計画があり、村として早期整備を要望しているが、建設には至っていない。[44] 本村は、隣接する奥多摩町とともにNOx,PM法の対策地域外であるため、一部の悪質な業者によっていわゆる「車庫飛ばし」が横行していた。村であることから車庫証明が必要ないため、たとえ車庫がなくとも実印と書類だけで登録できてしまう点を突かれたものである。2006年4月21日付の読売新聞記事では、警視庁交通捜査課が車庫飛ばしを行った運送業者8名を逮捕し、113台のダンプカーの不正登録を確認したことが報じられている。 放送・通信テレビ放送檜原村の居住地区においては、東京スカイツリー・八王子市等からの直接波は受信できないため、村内の各地域単位で「テレビ共同受信施設組合」が設置されている。各地域で見晴らしの良い場所に共同アンテナを設け、各家庭等に向けてケーブルテレビ(CATV)網が敷かれている(現在、独自の放送などは行われていない)。すべての地域テレビ組合において地上デジタル放送(一部ではBSデジタル放送も)を再送信している(デジアナ変換は実施していなかった)。そのため、視聴には地上(BS)デジタル放送に対応するテレビまたはチューナーなどが必要である。 一例として、2008年(平成20年)11月より、人里テレビ組合では、CATVパススルー方式により、地デジが視聴可能になっている(藤倉地区・湯久保地区など、テレビ組合が設置されていない地域での地上デジタル放送は、地デジ難視対策衛星放送によって受信する対策が採られていたが、終了後はケーブルテレビ網で受信している)。 インターネット
固定電話NTT市外局番は042で、立川MAである。村内の電話交換所は檜原局(598-0xxx、1xxx、2xxx、3xxx)人里局(598-6xxx)の2カ所である。 携帯電話多くの携帯電話基地局が設置されているので、街道沿いでの集落における通信状態は良好だが、谷底や山中では電波状態に注意が必要。 郵便番号観光![]() 南秋川北岸より北側、村内の約60%の地域が秩父多摩甲斐国立公園の指定地域に含まれている。 豊富な自然環境を利用したハイキングコース、渓谷での釣りやバーベキューなど手軽な川遊びなどが盛んである[46]。キャンプ場、民宿等が多数あるほか、奥多摩周遊道路は首都圏近郊のドライブコースとしても知られている。 文化・教育の項にある通り、伝統的な郷土芸能が各地域で盛んである。ほとんどの祭事等は例年9月前後に集中している。
出身人物出身著名人
ゆかりの人物檜原村を舞台とする作品映画ドキュメンタリー関連項目
注釈出典
外部リンク
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