桜木健一
桜木 健一(さくらぎ けんいち、1948年〈昭和23年〉3月26日 - )は、日本の俳優・歌手。別表記として櫻木 健一(読み同じ)。トライストーン・エンタテイメント所属。身長165cm(1972年3月)[2]。 来歴・人物大阪府大阪市阿倍野区美章園出身。6歳時から関西の児童劇団「舞台」に在籍[2]。1966年、上宮高等学校を卒業した。在学中は生徒会長をつとめ、本名でNHKのテレビ『ひょうたんの子』で俳優デビュー[2]。時代劇『新選組血風録』第25話「流山」に出演。近畿大学に入学するが、中退して上京し、1967年の『あゝ同期の桜』、1969年の『昭和残侠伝 唐獅子仁義』に出演した。 1969年、『柔道一直線』の主人公・一条直也役に抜擢される。これは同番組のプロデューサーだった東映の斉藤頼照が、「小柄で芝居がうまい」ということで桜木を大阪から呼びよせたもので、桜木のマネージャーはこの際に、桜木に柔道着を着せてきたという。 この『柔道一直線』を機に、芸名を桜木 健一とする。少年の頃から「花は桜木 人は武士」という一句が好きだったことから自然と浮かんで来たということで、姓を「桜木」にした。名の「健一」は桜木自身が尊敬する高倉健から「健」の一字をもらってきて、名前を引き締めるために「柔道一直線」の「一」を足して自分でつけたものである[3][4]。 『柔道一直線』は折からの「スポ根ドラマ」ブームもあって平均20%台の高視聴率を誇り、桜木は共演の吉沢京子とともにお茶の間の人気者となった。番組当時、桜木と吉沢のブロマイドはともに売り上げ1位のまま、3 - 4年間もそれが続いたという。同作の予告編にはファンレターの山から桜木が飛び出すカットがあるが、これは実際に届いた桜木宛てのファンレターをそのまま使ったものだった。 その後『刑事くん』に主演。萩原健一がゲストの回では、対抗意識を燃やしてネクタイをわざと緩めて異例のアピールを行ったという。桜木が劇中で必ず全力疾走するシーンがあるが、斉藤プロデューサーによると、これはその後に脚本スタッフが『太陽にほえろ!』で流用したもので、「走る刑事」の原典は桜木の演じた三神刑事だった。『刑事くん』は第4シリーズまで作られる人気作となったが、桜木は「もう大人だから子供番組をやめたい」と斉藤プロデューサーに訴え、斉藤プロデューサーも「しょうがない、終わりにしよう」と受諾。『特捜最前線』(テレビ朝日)に桜木を推薦してくれた[5]。 ただ、青春スターとしての印象が強かったためか、本人がスポーツ紙で語ったところによると、35歳くらいになるとテレビの仕事が途絶えるという苦しい時期もあったという[要出典]。 以後、活動の中心を舞台に移し、山本周五郎原作の『さぶ』、『樅ノ木は残った』など、多数の舞台に出演。歌手としての活動は、『柔道一直線』の主題歌のほか、『太陽の恋人』、『恋はうそつき』、安倍里葎子とデュエットした『誘惑』がある。映画では『仁義なき戦い 完結篇』や『新仁義なき戦い 組長最後の日』などに出演した。 『柔道一直線』のDVD-BOXが発売された時、雑誌の数ページに渡るインタビューで、「逆回しにするため、セリフを逆から叫びながら、木から飛び降りた。公園のロケで大勢の人が見ていて、恥ずかしかった」「台本は、直前に出来てくることも多かった」などの、当時のエピソードを話している。吉沢京子は、「“櫻木さんは、なんでも出来ちゃう人だなあ”と思って見ていた」と、当時の印象を話している[6]。 ロス五輪の柔道金メダリスト・斉藤仁に、五輪前に本人から指名を受け、柔道雑誌の対談で初めて会った。そのとき「自分は『柔道一直線』を見て、柔道を始めたんです」と言われ、それが「とても嬉しかった」のだという。「あのドラマは、いわば僕の名刺代わりだから。あれがあったから、今の僕がある。」と話している。その後、「金メダルを取りました!」と報告があったという[7]。 『パンダが町にやってくる』(2008年)では、主人公のご近所で道場を営む柔道の先生役。その名も“十条直哉”で、(還暦のため)赤い柔道着に身を包み、吉沢京子と夫婦役という設定であった。赤い柔道着は本人の自前で、先輩からお祝いに贈られたものである[7]。また、作中では講道館から功労賞を贈られ、そのお祝いに駆けつけるという設定で、斉藤仁本人がゲスト出演している。 2009年、そば好きが高じて横浜・八景島シーパラダイスに「櫻木健一のお店」と銘打った「そば処 櫻木庵」を出店。「一直線天ぷら」「つばめ返しうどん」などのユニークなネーミングが並んでいたが、2014年に閉店した。 出演※を付したものは宮土尚治名義。 テレビドラマ
映画
Vシネマ
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デュエットシングル
アルバムオリジナルアルバム
タイアップ
参考文献
脚注
外部リンク
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