東レ
東レ株式会社(とうレ、英語: Toray Industries, Inc.)は、東京都中央区日本橋室町に本社、大阪府大阪市北区中之島に大阪本社を置く、合成繊維・合成樹脂をはじめとする化学製品や情報関連素材を取り扱う大手化学企業。日経平均株価およびJPX日経インデックス400の構成銘柄のひとつ[5][6]。 炭素繊維の開発・販売で世界首位。三井グループの中核企業の一つとしてその名を知られる。 コーポレート・スローガンは、「Innovation by Chemistry」(化学による革新と創造)。また同社の企業広告では「素材には、社会を変える力がある。」(MATERIALS CAN CHANGE OUR LIVES.)のフレーズも使用されている。 社名にあるレは再生繊維のレーヨンを意味する(旧社名:東洋レーヨン)が、東レはレーヨンの生産を終了している。 概要化学繊維は19世紀より実用化されており、日本でも1918年(大正7年)に、秦逸三らの手により帝国人造絹絲(現・帝人)が誕生していた時代でもあった。そうした時代の到来に対応すべく、三井物産の出資により東洋レーヨンとして、1926年(大正15年)に創業した。滋賀県大津市に滋賀事業場を開設し、生産を開始する。1951年(昭和26年)には米・デュポン社により開発された合成繊維、ナイロンの製造技術を導入し、1958年(昭和33年)には、帝人と共にポリエステル繊維「テトロン」(テは帝人の「テ」、トは東レの「ト」から来るもの)の生産を開始し、徐々に業績を上げてゆく。1964年(昭和39年)には、絹に似せたポリエステル繊維でつくられた、日本初の丸洗い可能な着物「シルック」を開発した。同じくしてアクリル繊維の「トレロン」も開発する。トレロンは、当時セーターなどのニットウェアを洗濯機などで洗うと縮んで着られなくなってしまうという不安を解消することに成功した。 一方、社名にもなったレーヨン糸については、1963年に生産を収束(レーヨン綿については、1975年まで製造)。社名と実業の乖離が生じたため、1970年1月に東レに社名変更した[7]。 1970年(昭和45年)には、高級スエードに似せてつくられた人工皮革「エクセーヌ」(現在も高級感を持つ化学繊維の代表となっており、自動車用内装材としては「アルカンターラ」のブランド名で世界展開)、テニスラケットなどに使用される炭素繊維「トレカ」、静電気の起こらない化学繊維「パレル」などを開発した。その後も1986年(昭和61年)には古舘伊知郎が出演したCMでも知られる家庭用浄水器「トレビーノ」(同社の開発した中空糸膜を利用)や、眼鏡のレンズクリーンシートとして知られる「トレシー」(同社製の極細繊維を利用)など、現在も化学技術を軸に様々な製品を開発し、世に送り出し続けている。 各スポーツ大会へ積極的に協賛していることでも知られ、特に1973年(昭和48年)に初協賛して以来「東レ シルックトーナメント」から今日まで協賛し続けている「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」などで有名である。その他、バレーボール部の「東レアローズ」(男子・女子)や、ボート競技の「東レ滋賀ボート部」(滋賀事業場の所属)もある。 2008年(平成20年)に国連協会ニューヨーク本部から「ヒューマニタリアン賞」を受賞した。2008年(平成20年)のテーマは「環境・気候変動」で、ミレニアム・ゴールの#7(Millennium Development Goals; 2015年(平成27年)までに達成すべき21世紀の国際社会の8つのゴール)「環境の持続可能性の確保」をテーマに捉えた賞であり、環境配慮型事業活動ならびにCSR活動(水処理・造水事業の展開、炭素繊維による温室効果ガス削減への貢献、省エネ、職場改善等)が気候変動や社会の持続的成長に貢献していると評価され、日本企業としては初めて国連協会ニューヨーク本部 (The United Nations Association of New York) から「2008年ヒューマニタリアン賞 (Humanitarian Award) 」が贈られた。授賞式は2008年(平成20年)10月23日にニューヨークの国連本部で開催され、東レからは榊原定征代表取締役社長(当時)が代表して出席、三井グループの主要企業からも幹部が同席した。 現在同社の会長を務める榊原定征は2014年(平成26年)から2018年(平成30年)まで第4代日本経団連会長を務め、高度プロフェッショナル制度の導入に尽力した。また元副社長で現在特別顧問を務める飯島英胤は2006年(平成18年)から日韓経済協会第7代会長を務めている。 東レの三六協定(平成28年3月締結)は、所定労働時間基準で特別条項は月100時間、年間900時間まで認められ[8][9][10]、厚生労働省の定める過労死ラインを超過する。 歴史
主要製品
炭素繊維複合材料はボーイング787の一次構造材に採用され、機体の軽量化に貢献している。PAN系炭素繊維メーカーとしては、世界最大手である。 民生品では、微細繊維眼鏡拭き「トレシー」の製造元として有名。微細繊維が油分をとる効果に着目したもの、洗顔用としても売れた。また、同社の開発した中空糸膜を利用した家庭用浄水器「トレビーノ」シリーズでも有名である。 戦時中の兵器生産東洋レーヨン(当時)は太平洋戦争中期になると、繊維工場の機械設備は修理が困難となり、また機械設備は金属類回収令 に供出されるなど経営は厳しくなった[11]。しかし、東洋レーヨンは大戦終了後に繊維メーカーとして再起するため、あくまで化学繊維生産を通した[11]。大戦中も、あくまで主力製品は軍需衣料、国民衣料と占領地供給衣料生産であった[11]。 しかし、軍需産業への転出を希望する技術者を引き留めるため、機械設備供出後に遊休化した工場設備を利用して、滋賀工場において兵器生産が開始された[11]。兵器生産は1943年(昭和18年)5月から始まり、海軍向けの九二式魚雷を月産100本、魚雷の頭部を日産125本を生産し、呉海軍工廠および舞鶴海軍工廠へ納品した[11]。 太平洋戦争終戦後は兵器製造部門の民需転換のため車輌部として発足し、1945年(昭和20年)11月30日から滋賀工場において鉄道車両の修理が開始された[12]。最初は戦災車両の修理・解体から始まり、鉄道省の協力により客車・貨車の修理・改造・新造のほか、私鉄車両の修理・新造、タンク車の製造などを行った[12]。1949年(昭和24年)3月の職制改革で滋賀工場車輌部は東洋機械工業所として分離された[12]のち、1955年(昭和30年)3月の職制改正で東洋機械工業所は廃止された。以下に製造に関わった車両例を示す。 車両に取り付けられる製造所銘板は、東洋レーヨン車輌部と書かれていた[13]。 事業場・工場/主要生産品目
関係会社
元関係会社
代理店上場している代理店には、株式会社アバールデータ等がある。[15] 水着キャンペーン→「東レキャンペーンガール」も参照
東レは1960年(昭和35年)より水着キャンペーンを開始していた。1969年(昭和44年)から1973年(昭和48年)までは木原美知子を専属水着アドバイザーとして起用し、水着素材「ピチ」のキャンペーン展開を行った。1974年(昭和49年)から1980年(昭和55年)までは海外水着ブランド「カタリナ」のシンボルとして外国人モデルを起用した。 1981年(昭和56年)から、本格的な水着キャンペーンガールを起用している。初代はクリス・ソロムコ。それ以降、歴代キャンペーンガールから山口智子、杉本彩、藤原紀香、菊川怜などの女優・タレントを次々と輩出した。 大手繊維企業が水着キャンペーンガールから次々と撤退する中、東レは今後も続けていくことを強調している。 2015年(平成27年)度より『東レキャンペーンガール』に改称。 2006年(平成18年)からはデサントとのコラボレーションで、男性用水着「Mr.T-body」のPRとして、業界初の『キャンペーンボーイ』も新設した。初代キャンペーンボーイに鈴木亮平、2代目にはビーチバレー選手の畑信也が選ばれた。 出身著名人
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参考文献
不祥事・事故
脚注
関連項目
外部リンク |