杜の都杜の都(もりのみやこ)とは、宮城県仙台市の雅称および愛称である。「杜の都・仙台」として知られる。 2008年(平成20年)時点で発見されている文献による初出年は、仙台を「森の都」と記したのが1909年(明治42年)、「杜の都」と記したのが1916年(大正5年)である[1]。1970年(昭和45年)9月22日に市が制定した「公害市民憲章[2]」に「杜の都」と記されて以降、市は同表記を公文書における統一表記として用いている[3][4]。 「社」と「杜」と「森」
木偏の「杜」の音読みは呉音で「ズ」(ヅ)、漢音で「ト」であり、中国古来の意味では山野に自生する落葉果樹(ヤマナシ、コリンゴなど)を指すことはあっても「もり」の意味はない。訓読みには「もり」「やまなし」「ふさ-ぐ」があるが、「もり」は国訓とされる[5]。一方、示偏の「社」の訓読みには「やしろ」のほかに「もり[† 1]」もあったが、平安時代以降、示偏の「社」を「やしろ」、木偏の「杜」を「もり」と使い分けるようになった[5]。このため、「杜(もり)」は神社の「鎮守の森」「ご神木」を意味するともされる。 しかし、「もり」という訓読みが共通する同訓異字の「森」と「杜」とは古くから混用されており、例えば鎌倉時代には地名であっても書き分けられていない[1]。また、「杜の都」という表記の初発とみられている1916年(大正5年)発行の『仙台繁盛記』(富田広重 著)の中で、同じ著者が「森の都」と「杜の都」の両方を使用しているため、明治期に生まれた「森の都」という名称を、著者が意味の違いを意識して大正期に「杜の都」に書き換えたという説明も成り立たない[1]。 1970年(昭和45年)に「公害市民憲章」を制定したのを機に、仙台を指す場合は「杜の都」が公式表記と定められた[3]。これ以降、仙台市役所により「杜」と「森」とは意味が異なるとされ、「杜」は江戸時代から仙台の人々が植え育ててきた屋敷林や街路樹などの人工林を指し、それらが仙台の風土や歴史に立脚しているという説明がなされてきた[6]。 歴史江戸時代の植林伊達政宗による仙台開府以前、この土地は「宮城野」と呼ばれており、仙台平野には木がほとんどなかったと言われている[7]。現在の仙台市の中心市街地に当たる部分も、城下町が建設される以前はススキやヨシが生い茂る草原だった[8]。 城下町が造られると、その中の武家屋敷において植林が行われて屋敷林が形成された。武家屋敷は広大な敷地を持ち、屋外空間が広く取られていた。例えば、昭和初期に行われた調査では、とある仙台の中級家臣の旧邸宅は、敷地に対する家屋の面積は7パーセントだった[9]。仙台藩は継ぎ木を分け与えるなどして、家臣に植樹を奨励した。武家屋敷の敷地に植えられた樹種は、主にスギ、マツ、キリ、カキノキ、ナシ、クワ、クリなどである[10]。果樹は食料として利用され、屋敷林は武士による生産活動の場だったとされる。また、これとは別に、郊外の神社仏閣でも境内や参道、敷地の辺縁で植樹が行われた[9]。 このような城下町での植林は仙台に限ったことではなく、日本各地の城下町で一般的に行われていた。ただ、仙台の城下町は、元禄年間(1688年から1704年)において城下町における武士の比率が8割に達するなど、他の城下町と比べて武士の割合が高く[11][12]、また、城下町の屋敷林、郊外の寺社の並木、周辺の丘陵地と続く樹林の連続性という特徴を持っていた[11]。 明治から戦中まで明治時代になり武士の世が終わると、一部の武家屋敷は分割されたり借家に転用されたりしたが、多くは住宅としてそのまま継承され、屋敷林も維持されていた[13]。この時代に仙台を訪れたフランス人宣教師のジャン・M・マランは、仙台市街の樹木が多い景観について、その印象を記録に書き留めている[14]。この頃の仙台では、武家屋敷に住んでいた資産家が、その敷地に芝生を張ったり庭石や灯篭を置いたりして庭園をたしなみ、割烹や料亭においても接遇のために庭園が重要視された[10]。また、広瀬川を見下ろす位置に設置された桜ヶ岡公園は、旧武家屋敷からの屋敷林を引き継ぎ、桜や梅などを加えて整備された。街路樹の整備も行われ、1885年(明治18年)に仙台城の大手門から大橋まで、松や杉、桜の並木が造られた。1887年(明治20年)に日本鉄道が仙台まで路線を伸ばし仙台駅が設置されると、駅前通となった南町通に1891年(明治24年)に桜が街路樹として植樹された[15]。 鉄道が仙台まで延びたことで、仙台を紹介する観光案内書が発行されるようになる。1890年(明治23年)刊行の『仙台案内』には市街地の緑が豊かであることが書かれている。1907年(明治40年)に荒川偉三郎が『松島志を李』において、仙台市街地南部の向山から見た仙台の町の様子を「深林の都」と表現し、その2年後、荒川は『仙台松島塩竈遊覧の栞』において「林巒西北に綬り、平野東南に開け、河渠市街を貫流し、樹木各所に繁茂し、常に気は澄み翠は滴りいわゆる都会の紅塵を見ず。故に森の都と称す。」と記し、ここに森の都という言葉が生まれた[16][17][18]。 昭和の時代に入ると、仙台市民の意識に「森の都」の浸透が進んだ。仙台市内の尋常小学校で使われた郷土読本において「森の都」が題材になり、教育に用いられた[19]。また、『仙台小唄』や『仙台音頭』の歌詞に「森の都」が含まれ、市民に口ずさまれた。1936年(昭和11年)にコロムビアから発売され、歌詞にやはり「森の都」が含まれた新民謡『ミス仙台』は戦後にも再発売されるヒット作となった[20]。後の1978年(昭和53年)に第20回日本レコード大賞の新人賞を受賞したさとう宗幸の歌謡曲『青葉城恋唄』もヒットし、仙台に「杜の都」のイメージを定着させ、その知名度を全国的に上げる契機となる。 第二次世界大戦の末期の1945年(昭和20年)、アメリカ軍は大規模空襲を予告するため撒いたビラに「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷していたという[21]。そして予告どおりの同年7月10日、仙台市街は仙台空襲によって焼き尽くされた。この空襲によって市街地にあった屋敷林も同時に焼失した[22]。 第二次世界大戦後戦後の復興において、市街地を縦横に貫く広い幅員の幹線道路が建設されたが舗装までは行き届かず、晴れの日は砂埃が舞い上がって「仙台砂漠」と呼ばれた[23]。また、家庭の燃料として亜炭(仙台市の亜炭)が大量に使用されたため、昭和30年代までの仙台では夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いが街中に漂うようになり[24]、埃っぽさに拍車をかけた。一方、雨の日は道がぬかるみ「仙台田圃」とも呼ばれた[25]。 1950年(昭和25年)4月、全国で行われた国土緑化運動にあわせて、青葉通で市長や市議会議員が臨席の元、植え初め式が行われ、これ以後、1966年(昭和41年)まで段階的に青葉通へのケヤキの植樹が行われた。青葉通以外の街路でも「森の都」の再生を願って植樹が多数行われ、植えられた樹種はニセアカシア、イチョウ、トウカエデ、シラカシ、エンジュ、ユリノキなど多岐にわたった[26]。植樹された街路樹は1987年(昭和62年)までに1万9000本以上に達し、その総延長は計242路線で約125キロに及んだ[27]。 1956年に完成した第三代の仙台市役所庁舎は、杜の都をイメージし東西の外壁タイルを深緑色としている[28]。 高度経済成長期に当たる1960年代後半になると、日本各地で郊外の開発が行われるようになり、これによってその緑地が次第に失われていった。そのような状況の中で仙台市は1973年(昭和48年)に行政の力で緑地の保全、育成を目指す「杜の都の環境をつくる条例」を制定した[29]。これは、仙台市が保存を目指す緑地を指定し、指定された場所で樹木の伐採や建物の建築を行う場合には事前に届出をしなければならないというもので、急速に進む郊外の開発の抑止を狙っていた。指定地所有者が仙台市と緑地保存協定を結べば、所有者は一部の税が免減され、また協力援助金が交付された。1975年(昭和50年)から3年間で、保存緑地に指定された土地は45箇所644ヘクタールに上った。このうち4割が民有地であり、さらにその中の約7割が協定を結んだ[30]。この他に仙台市は1980年代中頃に、保存緑地を買い取るための「緑地保全基金」や、民有地での生垣設置を助成する「杜の都緑化基金」を立ち上げた[31]。 しかし、1980年代後半になると、代替わりした保存緑地の所有者の中に、地価の高騰から土地を手放す者が現れた。保存緑地に指定されたまま宅地やマンションが建設され、それに対して仙台市は有効な手立てを打ち出せなかった[30]。また、街路樹においても電線埋設工事や共同溝設置工事で伐採される事例が出始め[32]、仙台市は緑地の保全と都市整備、開発の間で板ばさみとなった[33] 1989年(平成元年)、青葉通において地下式駐輪場が建設されることが公表されると、市民が反対運動を展開した。仙台のマスメディアがこれに追従したこともあり、仙台市は計画の変更を迫られることになった。当初予定だったケヤキ9本の移植と3本の植え直しを、4本の移植と3本の植え直しに変更することで仙台市と市民に間で妥協が成立し、地下式駐輪場は建設された[34]。 年表
仙台を表す記号近年、「杜」(もり)の一文字で「仙台」を表す例が増加している。「杜の囲碁サロン」「杜のホテル」、その他店舗の名前として、自然林とも人工林とも関係なく「杜」という言葉が用いられている。当然、「杜」は仙台を指しているが、仙台を指す場合は「杜の...」「~の杜」というように「杜」単独で用いられることは少ない。ただし、団体名において、「杜都」と書いて「もりと」「とと」と読ませる例も見られる。 他の地方でも「自然と共生」している施設や公園などに「杜」という言葉を使う例があるが、宮城県では「仙台」または「仙台都市圏」という意味が付加されていることが多い。公共施設の他、自然の多い住宅地や自然の中の喫茶店などに「~の杜」という命名も見られる。住宅地の場合は「~の丘」「~ヶ丘」と命名する代わりに用いられていると考えられるが、いずれにせよ、「仙台市または仙台郊外」「自然と共生」という意味あいを含んでいる。 なお、仙台を示すものを列記すると、以下のようになる。 記号
異名仙台参照
異字
具体例杜の都組織・大会・通称名
作品名
杜「杜」を仙台または仙台都市圏を表す記号として用いている主なもの。住宅地の名称や商店名は除く。 人名公共施設等
花名取市にある宮城県農業・園芸総合研究所[84]が開発したユリ 漫画・冊子
テレビ番組その他脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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