杉田定一
杉田 定一(すぎた ていいち、嘉永4年6月2日(1851年6月30日) - 昭和4年 (1929年)3月23日)は、日本の政治家。衆議院議長などを務めた。号は鶉山(じゅんざん)。越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市波寄町)出身。 来歴・人物豪農の杉田仙十郎(1820-1893)[1]・隆(りう、-1855)夫妻の長男として生まれる。明治元年(1868年)ごろ大阪に出て外国語や理化学を学び、その後東京の三崎嘯輔の塾でドイツ語・理化学を学んだ。明治6年(1873年)にいったん波寄村にもどり、再び各地を放浪したのち、明治8年(1875年)、東京で『采風新聞』を創刊するが、筆禍事件により収監を経験した(1876年3月禁獄6か月)[2]。明治11年(1878年)、再興愛国社大会に参加し民権政社を結成しようと帰郷した。翌年自宅を改造して在郷子弟のための学習結社「自郷学社」を設立。同じ時期に福井県内で起こっていた地租軽減運動を指導し、民権政社自郷社を結成した。明治14年(1881年)には自由党の結成に参加した[3]。 明治19年(1886年)7月、視察と勉学のために欧米遊学(~1888年6月帰国)。帰国後、後藤象二郎が中心となって展開していた大同団結運動に参加。明治22年(1889年)1月の福井県会議員選挙に当選し、県会議長として大日本帝国憲法発布式に参列した。明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙から衆議院議員を務め、途中1回の落選を挟んで明治末まで務めた。途中、憲政党・立憲政友会の結成に尽力して第1次大隈内閣では北海道庁長官、第1次西園寺内閣では衆議院議長を務めた。また、九頭竜川の改修に尽力し、私財の一部も寄付して工事の実現を図った。三国鉄道建設にも深く関わった。明治45年(1912年)4月2日[4]に貴族院勅選議員に転じるが、交友倶楽部の結成を働きかけて政友会の勢力を貴族院にも広げた。後に護憲三派の結成に反対して政友本党に参加するが、晩年は政友会に復党している。 この間、明治29年(1896年6月)に福井県絹織物同業組合の委託を受け海外実業練習生として、村野文次郎とともに米国・欧州などの市場調査を行った(12月帰国)。 昭和4年(1929年3月)に東京渋谷の自宅「南郭西荘」において逝去した[5]。法名は擁憲院鶉山定一大居士。 家族栄典
脚注
参考文献
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