池田清 (内務官僚)池田 清(いけだ きよし、1885年2月15日 - 1966年1月13日)は、日本の内務官僚、政治家。北海道庁長官(第22代)、大阪府知事(官選第26代)、警視総監(第46代)、海軍司政長官。貴族院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 経歴鹿児島県出身。池田直助の長男として上野家から養子として池田家に入る。鹿児島一中、五高を経て、1913年(大正2年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し内務省に入省。警視庁警部に任官し神田錦町警察署に配属された。 小松川警察署長を経て、1916年(大正5年)3月、警視庁警視に昇進し本所向島警察署長に就任。以後、下谷上野警察署長、監察官・第二方面担当、第一方面担当、総監官房外事課長を歴任。1922年(大正11年)10月、岐阜県警察部長に就任。 1923年(大正12年)10月、内務省本省勤務となり、内務書記官・神社局第1課長となる。以後、兼衛生局保健課長、神社局総務課長を歴任。1928年(昭和3年)1月、京都府書記官・警察部長に転じ、大阪府書記官・警察部長、兵庫県書記官・内務部長を歴任。1931年(昭和6年)6月、朝鮮総督府警務局長に発令され、北海道庁長官、大阪府知事を経て、1939年(昭和14年)9月、警視総監に就任した[1]。1940年(昭和15年)1月、依願免本官。 太平洋戦争を迎え、1942年(昭和17年)1月、海軍司政長官・海南海軍特務部総監に就任した。1944年(昭和19年)8月、大阪府知事に再任され1945年(昭和20年)4月まで在任した。同年8月15日に貴族院勅選議員に任じられたが、15日間の在任で同月30日に辞任[2]。その後、公職追放となり、1951年(昭和26年)8月に解除された。 1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙に鹿児島県第1区から自由党公認で立候補し当選。二期務めたが、1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で落選した。 晩年は鎌倉市大町にて過ごし、1966年1月13日死去、80歳。死没日をもって銀杯一組を賜った[3]。墓所は青山霊園(1ロ8-1~14)。 親族池田直助には実子がおらず、上野家から養子として池田家に迎えられた。由来は鹿児島県(薩摩藩)。
脚注参考文献
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