朱引朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が定めた江戸の範囲である。地図上に朱色の線を使って示した[1]。 いわゆる「大江戸」の範囲であり[2]、現在の東京都千代田区、中央区、港区、文京区、台東区、墨田区、江東区、新宿区、豊島区、荒川区のほぼ全域(埋め立て地を除く)と、渋谷区の大部分、そして品川区、目黒区、北区、板橋区の各一部に該当する。 「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。 概要1590年(天正18年)の江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでに、その範囲は不明確となっていた[1]。幕府目付・ これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」[5]、「御府内(ごふない)」[1]、などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。 範囲朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである[2]。 現在の行政区画では次の範囲に相当する[1]。
墨引朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行所支配の範囲を示していた[1]。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域である[1][2]。 明治期の朱引1869年(明治2年)2月19日、東京府は、新たな朱引を定めた[6]。この明治期の朱引は、皇居を中心として、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものだった[7]。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定された(五十番組制[8]、五十区制)[9]。1871年(明治4年6月13日)、再改正によって範囲を縮小された朱引内は44区に再編成(朱引内四十四区制)され、1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いた[10]。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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