時枝誠記
時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1967年〈昭和42年〉10月27日)は、日本の国語学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)(学位論文「言語過程説の成立とその展開」)。東京大学名誉教授。 生涯横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之の子として東京神田に生まれる[5]。 暁星中学校、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1925年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。卒業論文は「日本に於ける言語意識の発達及び言語研究の目的と其の方法」[6]。1943年に学位論文「言語過程説の成立とその展開」で東京帝国大学より文学博士の学位を取得[7]。 1925年に旧制第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)教諭。1927年に京城帝国大学助教授、同年末に語学研究法研究を目的にイギリス・ドイツ・フランス・アメリカの各国を留学[5]。1929年に帰任、間もなくして結婚[5]。1933年に京城帝国大学教授、1943年に東京帝国大学文学部国語学国文学第一講座教授。 1948年に国立国語研究所評議員[5]、1949年に国語審議会委員[5]、1954年に国語学会代表理事。1961年に東京大学を定年退官して同大名誉教授となり、早稲田大学教授に就任[注 3]。墓所は青山霊園。 業績明治以前の国語学史の検討から欧州言語学への批判研究を進め、「言語過程説」と呼ばれる独自の学説を建設し、近代国語学の分野に新たな展開をもたらした[9][10][11]。これらの成果に基づいて形成した国語学は「時枝国語学」として有名で、これに基づいた文法理論は「時枝文法」として知られている。また、言語教育を基とする国語教育の振興や戦後の国語学界の再建にも尽力した[12]。 時枝の言語観は、思想・哲学・文学・演劇などの各界にも及んでいる。イデオロギーに依らない保守思想、演劇思想などを展開した福田恆存[注 4]の言語体系に影響を与えた事が指摘されている[14][15]。また、ソビエト連邦の言語政策への言及から、三浦つとむを通して吉本隆明に影響を与えた事が知られている[16][17]。さらに実存主義と構造主義の対立期には、ソシュールに対応したことにより、対抗理論と位置付ける動きが見られている[18]。 研究の分野当時の国語学は、歴史的かつ文献学的な研究が主流であったが、時枝自身は、言語理論の研究に真正面から取り組んだ。時枝は幕末以後における日本語の捉え方が、日本に伝来した西欧の言語観に基づいていることに不満を感じ、明治以前の国語学者における態度や意識について探索することを、己の研究の出発点として、日本語独自の見方を求めていったのである[9][11][19][20][21]。その研究は実証的研究というよりも、基本的理論を樹立するという方向にあるため、研究分野は国語学のほぼ全領域にまたがる[21]。また、東大を退官した後、時枝は「言語生活史」の体系的記述を企図していたが、本人が早世したことにより中絶された[21]。 言語観時枝は生涯を通して、ソシュールの言語観を「『言語構成観』に基づく言語理論である」と批判した[22]。そして、それに対立する命題として「言語過程説」を位置づけると同時に、これこそが日本の伝統的な言語観であることを主張した。時枝の指摘するソシュールの言語観に対する理解の在り方については議論があり、それぞれの言語観に関する比較研究もなされているほか、「言語過程説にはフッサールの現象学の影響が垣間見える」として、日本における現象学受容史の枠組みで捉えられることもある[22][23]。 朝鮮における時枝時枝は植民地朝鮮の日本語普及にも関与し、皇民化政策の時期には「韓国併合という歴史的な一大事実」の完成を名目として、朝鮮人に対し朝鮮語の完全なる廃棄と日本語の母語化を求め[24]、さらにその具体的な方策として朝鮮人女性への日本語教育を重点的に行うことを訴えた[25]。安田敏朗は時枝の弟子の中に朝鮮における皇民化教育に関与した森田梧郎がいたと記している[26]。 栄典1967年(昭和42年)10月27日 - 正四位、勲二等瑞宝章[27] 著述書籍単著
共著編集
共編
監修
作品集
論文
博士論文
脚注注釈出典
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク |