昭和女子大事件
昭和女子大事件(しょうわじょしだいじけん)は、保守的・非政治的学風で知られる私立大学の退学処分を受けた学生が、処分が憲法違反であることを理由に身分の確認を求めて争った事件。日本国憲法に定められた人権規定の私人間効力について争われた。最高裁判所1974年7月19日判決。 概要1961年(昭和36年)10月20日頃から、昭和女子大学の学内で政治的暴力行為防止法案に反対する旨の署名運動を無届で行ったり、無許可で民青同盟に加入した学生がいることが判明した[1]。昭和女子大学は本人および保護者などに連絡をとりながら3ヶ月余にわたって説諭を続けたが、当該の学生の態度は変わらなかった[1]。 この間、12月4日頃になり事実と相違するビラが学内にまかれ、これを契機として新聞記者が取材のため来学して学校当局者に面会を強要した。12月15日、40名を越える労働者を混じえた学外団体が守衛の阻止を強引に突破して大学構内に侵入するという事態が発生しこのため学内の空気は攪乱され、一部の学生は動揺していた。当該学生は1962年(昭和37年)1月20日発売の雑誌「女性自身」に仮名で手記を発表し、1月26日に麻布公会堂における全都学生集会において今後も闘争を続ける旨を宣言し、2月9日放送の東京放送のラジオ番組「朝のスケッチ」に出演し、公然と昭和女子大学を誹謗する活動を続けた[2]。 一連の流れを受け昭和女子大学側は教授会の決議により1962年2月12日付で2名の学生を退学処分とした。その理由として、昭和女子大学は学則の細則として「生活要録」を定めており、その中に「政治活動を行う場合は予め大学当局に届け、指導を受けなければならない」旨の記載があり、原告の学生2名はこれに抵触したこと、さらに「反省を促しつつあったが改悛の情がないのみか公開の会場その他において本学に対する不穏な言動により秩序を乱し学生の本分に反いた」としている[1]。これに対して、原告2名は昭和女子大学の学生の身分確認を求める訴えを起こした。 一審(東京地判昭和38年11月20日)は退学処分が「公序良俗に違反する無効のものである」として原告の請求を認容したが、二審(東京高判昭和42年4月10日)は一審判決を取り消し、退学処分が「裁量権の範囲を超えるものとは解しがたく(中略)公序良俗に反し無効であるとか懲戒権の濫用で無効であるとは解されない。」として請求を棄却した。そこで、学生側は、昭和女子大学の「生活要録」そのものが、思想や信条の自由を謳った日本国憲法に違反すること、退学処分が違憲であることなどを理由に上告した。裁判において、原告の元学生側では84人[3]もの弁護士などが上告代理人を務めた。 最高裁判決最高裁判所第三小法廷は、全員一致で上告を棄却した。判決では三菱樹脂事件を引いて、憲法の規定は私人間に類推適用されるものではない(間接適用説)という立場に立ち、まず「生活要録」は憲法に違反するかどうか論ずる余地はない、とした。そして退学処分は思想、信条を理由とする差別的取扱でなく、懲戒の裁量権の範囲内であるものとして、その効力を否定することはできない、とした[4]。なお、これらの判決に示されたこの種の事案に関する法解釈等は実務・学説とも一般的に主流となっているが、一方で思想・良心の自由を謳った日本国憲法の精神に反するという批判も一部でなされている[5]。 脚注
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