庄川
庄川(しょうがわ)は、岐阜県北部および富山県西部を流れる、庄川水系の一級河川である。 流域には、合掌造りで知られる白川郷や五箇山などがある。古称は雄神川(おがみがわ)で、谷口付近の砺波市庄川町の鉢伏山麓にある雄神神社に因むものとされている。神社付近の地域を「雄神の庄」と呼んでいたことから、そこを流れる河川そのものが「雄神の庄川」と呼ばれ、のち「雄神」がとれて庄川という名前になった[1][2]。 地理庄川は、岐阜県高山市南西部の飛騨高地にある山中峠(1,375 m)と烏帽子岳(1,625 m)を水源としている[3]。一色川と合流した庄川は、高山市荘川町牧戸で御手洗川と合流し、御母衣湖から白川村を経て北上し富山県に入る。庄川峡を経て、砺波市庄川地区で平野部に出て北流し、砺波平野・射水平野を潤し、射水市新湊地区の市街地の西側で富山湾に注ぐ。上流部は電源開発が進み、御母衣ダムを始めとしてダムが多い。 なお、庄川支流の御手洗川の水源は岐阜県郡上市高鷲町ひるがののひるがの高原の湿原で、この湿原が中央分水嶺になっており、分かれているもう一方は長良川となって太平洋まで繋がっている。 富山県の七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川)の一つ。 降水と流量下流の平野部は日本海側気候で、冬も夏も一定の降水がある。上流の岐阜県側山地では、冬は平野部と同じくらい降るが、特に夏の降水量が多い。平野部の年間降水量は約2300mm、上流では約3300mmである[4]。 大門流量観測所での1980年頃の年間総流出量は約13億トン。平均して毎秒約42トンの流量があった[2]。 歴史砺波平野は東の庄川と西の小矢部川による複合扇状地である。古い時代の流路は不明だが、庄川は平野に複数の分流を持ち、江戸時代まで、大洪水のたびに主な河道が別の分流へと切り替わる、という歴史を経てきた[5]。庄川というのは「雄神の庄」あたりの呼び名で、下流では「野尻川」「中村川」「千保川」「中田川」など、それぞれ分流の名で呼ばれていた。 室町時代には、谷口から西流して現在の小矢部市付近で小矢部川に合流していた[6]。この合流点以降を射水川といった[2]。砺波平野の西側をめぐる流路である。 1586年の天正地震の際には、富山湾で津波が発生。遡上した津波により庄川流域での被害が多かった[7]。 後に谷口から北流するようになり、高岡市街地を通る現在の千保川が最も水量が多い本流となった。現在の庄川の流れは、分流の一つの中田川であった。1654年、瑞龍寺の寺地を千保川が削ったのを受けて、加賀藩主の前田利常が千保川の水を中田川へ移すことを命じたが、庄川左岸地域の住民の反対によってすぐには実施されなかった。 1670年、前田綱紀によって庄川扇状地扇頂部の弁才天前で千保川などの各分流を中田川へ一本化する大工事が行われ、44年後の1714年に完成した。これによって、庄川は河口付近まで別の流路となり、現在の高岡市吉久で合流するようになった。 1812年(文久9年)に、加賀藩の定検地奉行が年寄りに宛てた意見書の中には、本来ある堤防の内側に新田開発が行われ、さらにそれを守るために堤防が作られ、春の出水期に破堤する被害に遭っていることが記されている。藩内の各河川では盛んに対策工事(川除普請)が行われたが、庄川では困窮した農民が竹篭などの水防施設を薪として持ち去るケースが見られたため番人を配する措置がなされた[8]。 1897年には本格的な河川改修工事に着手し、1900年から1912年までにかけて、現在の射水市川口から直に富山湾へ流れるように工事が行われ、小矢部川と流路が完全に分けられた[9]。小矢部川の支流の地久子川および高岡市吉久の貯木場が昔の庄川の名残である。 流域の自治体岐阜県内(旧飛騨国)の庄川流域は白川郷と、富山県の山間部の庄川流域と利賀川流域は五箇山と呼ばれる。庄川の中流から上流までは険しい谷が続くため、その流域は明治時代に国道が開かれるまで「陸の孤島」となっており、加賀藩の流刑地とされたこともあった。五箇山には平家の落人伝説もある。 庄川が岐阜県と富山県の県境となっている箇所があり、そこを国道156号が直線状に通っているため、県境を7回連続で跨いでいる。またそこに架かる7つの橋は飛越七橋と言われている。 流域の観光地支流括弧内は流域の自治体 主な橋梁
並行する交通鉄道道路脚注
参考文献
関連画像
関連項目外部リンク
|