常呂郡(ところぐん)は、北海道(北見国)オホーツク総合振興局の郡。
人口11,678人、面積1,123.16km²、人口密度10.4人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)
以下の3町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね上記3町に北見市を加えた区域にあたる。後に紋別郡との間で境界変更が行われている。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の常呂郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれたが、その後分立したモンベツ場所に属した。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年常呂郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が警固をおこない、同6年の6藩分領にともない会津藩領となった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して常呂郡が置かれた。
また、常呂郡では北見温泉や温根湯温泉などが古くから知られている。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治3年10月 - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
- 10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
- 同年、ノツケウシ村、モイコツネイ村、トコロ村、チイウシ村、フトチヤナヘ村、テシマナヒ村、トウフツ村が成立。
- 明治8年(1875年)- 各村名に漢字を当て、野付牛村、生顔常村、常呂村、少牛村、太茶苗村、手師学村、鐺沸村とする。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第27大区
- 3小区 : 常呂村、少牛村、鐺沸村、生顔常村、太茶苗村、野付牛村、手師学村
参考文献
関連項目